レイクサイド・ハウス

@creamy_milk_pudding3

第一章



 その薬は蜜のように甘美で、一粒掬って温かなミルクに溶かすなり、舌でゆっくり転がすなりして服薬すると、春の午睡のような心地よいまどろみが思考を霞ませる。メジライトという名前だ。

 その宝石を半分砕いて舌に載せる。舌の先がピリリと痛んだ。その刺激は脳髄に抜ける頃には心地好い痺れに変じている。後味は金平糖を舐めたときに似ている。

 椅子に腰を下ろし、目を閉じる。瞼の裏で闇の黒が渦を巻き、やがてその中心に小さな光が宿る。光は徐々に大きくなる。それに合わせて闇の黒は増し、意識も飲みこまれる。光は全身を包みこみ、そして弾けた。宇宙が誕生した。

 漆黒の宇宙の中に、早朝の水面のように煌めく無数の星々があった。その中にひときわ大きく輝く青白い光があり、それに向かって落下を始める。

 落下するにつれてその輝きが増して、熱が頬をちりつかせる。やがて……。




 一章 銀の繭


 1


 開け放った車窓。

 私はほんの少しだけ身を、無作法にならぬよう背筋を保ち窓台に手を添え、林の深みに向かって乗り出す。

 シダが絡みつく、剥がれかけの樹皮の溝に沿って、先ほど止んだばかりの私雨わたくしあめが滴り落ちていく。しずくは下草の絨毯に吸い込まれるように消え、林の息吹に溶けあって。欅の葉は雨粒の玉をそっと抱え、通り抜けていく列車の揺れに合わせてぽとぽとと粒を落として、遠くではカエルの声が聞こえた。

 若草と土と苔の呼吸が、私たちの乗る車両に流れ込んでくる。 

 やがて、車窓の向こうに山ユリの群れが広がりを見せた。野趣に富んだ白い山ユリは、過度に甘やかさぬ丸やかな芳香と肥やしの匂いが混じったような香りを漂わせる。湿った空気とないまぜになって、首を撫でていく感触は、すこし不快だ。

 この季節にしてはもう暑いだろうかと思いつつも、例の薄手のカーディガンを羽織ってきてしまったが、柔らかな布と腕の間には既にじめっとした汗を感じていて、自分の見通しの甘さにわずかな苛立ちを覚えた。

 鼻を通って胸へと抜けていく匂いは、やがて水臭い、沢のカニのようなものへと変わっていく。水滴が車体を叩く音で、ようやくそれが雨の匂いだったと気付いた。

 クロスシートの斜向かいで背もたれのモケットに体重を預けきった彼は、膝の上に置いた本を読み進めていた。表紙は濃く沈んだ真紅で、ざらついた布地装に金の箔押しで『珊瑚集』と刻まれている。時間の中で色褪せることを拒むような存在感。

 視線は行を追っているが心は別のところに漂っているのか、退屈をやり過ごすための、形ばかりの読書をしているようだ。

 ページを捲った次は、無造作に伸ばした豊かな黒髪を触る。朝に梳いたのかも怪しい、癖のある毛先がところどころ畝るように跳ねていて、それがかえって、どこか野性的というか俗世を離れた風情をまとわせていた。

 直線と直線がすっと交わって切り出された台形の逆さまのようでもある顎、積木のような高い鼻梁、それらはまるで、たとえば彫刻刀で一度きり慎重に削り出したかのような絶妙な輪郭。見事な建築物のようでもある。黒のカッターシャツの襟元から、真白い首がのぞく。色彩の褪せた幾何学模様のチョッキはよく見ると、刺繍の糸が何本か解けかけている。それら全てが、モザイクの小片となって、ひとつ彼という人の像をかたち作っている、と思った。

 八尾やおのことを私は、とてもとは言わないけれど、どういう人であるかぐらいは知っているつもりだった。けれども東京を発ってからの今日の彼には何か別の皮膚がかぶさっているように見える。彼だけではなく、世界が少し靄がかかって霞んで、白っぽくて曖昧としていて。

 そのまましばしの間、穏やかな生温い風に揺れる黒髪を眺めていれば、彼がふと視線を上げる。それに、何かを言わねば——と、不思議な圧に急かされ私は言葉を探したのだった。

「あの。あとどれくらいで着くんでしょう」

 訊ねれば、彼は外をふと見た。

「もうほんの少しだろうよ。疲れたかい」

「いえ、ただ気になって」

 小さく頷くと八尾はまた視線を手元の本へと戻した。ページを捲る指先には、躊躇はないが熱もない。

 車内には他の乗客も目に付きはするが、喧騒と呼ぶほどの賑わいもなく、私の耳の奥では、四谷の下宿で彼が好んでいたあのレコードの旋律——『愛の夢』第三番変イ長調——が、遠く、水に沈むように、鳴り続けていた。灰色の天気には、どういうわけかその調べがよく似合うと思った。


 私たちが向かう先は、東北の山間はO群にあるという八尾家、だそうだ。

 彼の家は、祖母の血筋が戦前に南方航路の海運とセメント業で財を成した旧財閥系の家で、戦後は港湾周辺の土地をいち早く外資にリースし、その地代によって財を保った、立派な家柄だそう。

 彼の祖父は明治末期に招聘されたアイルランド系ドイツ人建築顧問で、帰化後は名前を日本風に変え、山奥に屋敷を建てて引退したのだとか。戦後すぐ財閥解体と輸出規制を経たが、その資産の多くは今も維持されているとか。その本家は山あいに構え、思わず唸ってしまうような美術品が客を迎えるという文化財級の私邸で、もっとも、今ではその扉がよその客に開かれることもめっきり減ったとか———とは、全て彼の受け売りだが。

 雨足は徐々に強くなっていった。最初はただ車輪にかき消されるような滴りだったものが、いつのまにか切れ目のない音で沿線に繁る草の葉を流し倒す勢いになる。

「窓、閉めますね」

 車窓を下そうと手を伸ばせば、木枠の窓は古いのか滑りが悪くて固く、力を入れてようやく窓を押し下げることができた。最後に響く締まり音は重たく、うっすらと車内の空気を区切るようだった。上げ止めの金具を戻すと指に錆びが付いた。

 伏せがちだった瞼を上げて、八尾が目だけで外を見る。

「いよいよ……天気が悪くなってきた。着く頃には止めば良いけど」

 人ごとのような呟きに、返事の代わりに小さく首肯した。

 降りしきる雨をけだるげに眺める、榛がかった彼の珍しい瞳に深い影がさし、ふいに揺れた。八尾修司はあの日もそんな落ち着きのない目で、言葉は飄々と冗談めかしながら、確かに私を、彼の帰省へと誘ったのだった。


 2


 元を辿れば、知人である彼が誘ったささやかな画行のようなものだった。

 彼に出会ったのは二年前のことで、私たちは互いに美術を学ぶ学生ではあったが、私は女子美の一回生で、むこうは八つ年上の東京芸大の三回生だった。友人と呼ぶには距離があり過ぎて、かと言って共通の師を持つ兄弟子というわけでもない。だから私は、彼のことを知人と呼ぶ。

 私たちはたまたま同じ下宿に身を寄せていたというだけで、彼の名前も長い間知らなかった。


 入梅の頃で、控えめな小雨が朝から絶え間なく降り続いていた日に私たちは出会った。

 日比谷公園の片隅にある、今はもう取り壊されてしまった、温室風の小さな花卉展示用敷地。罅割れたガラス越しに曇光が差しこみ、湿気を孕んだ空気はどこか青白く、肌寒かった。この場所の冷たく濡れた空気がよくて、散歩がてらスケッチをしに日比谷へ足を運ぶことも少なくなかった。

 そこの老朽化した暗緑色の鉄骨のアーチには、誰の手によってか、いつも淡い花びらの木香薔薇が絡みつき、季節になると自然のトンネルを咲かせていた。木香薔薇の香は雨にしっとりと湿って、甘やかな匂いを薄昏いトンネルの底に沈めていた。

 ふと足音がした。誰もいないはずの小径に人影が揺れた。影は徐々に輪郭をとって、光の中に背の高い、男のかたちを結んだ——それが、八尾修司だった。

 しとどに濡れた髪が額に張りつき、頬にはまだ雨粒が残っていて、傘を忘れるかして、たまたま見つけたここで雨宿りでもしているような感じだった。

 そんなに濡れて寒そうだと言うのに、彼は何気ない様子で立ち止まり、私のスケッチブックをしげしげと盗み見てから、まるで昔から知っている人に向けるような調子で、

「雨の日に公園なんて変わってる」

 と言った。

 あの日。あの時、私は何と言ったのだろう。

 ただ彼の顔のどこかに見覚えがあって、それがずっと心に引っ掛かっていた。

 首を傾げつつ下宿に戻り、やっと気づいたのだった。

 

 3


 外は段々と街の顔をし始めて、ビルやマンションの無機質な直線がどっと現れる。

 ぶつり、と乾いた音がスピーカーに走った。金属の擦れたような微かな残響が、静かな車内の空気を震わせる。声が流れる前の、あの一瞬の間。

 同じことを思ったのか、八尾は本の表紙を閉じた。列車の揺れが少し大きくなって金属が軋むのが耳に届く。

「まもなく郡山、郡山———」

 彼の言うところによれば、ここで磐越西線に乗り継ぎ、さらに二、三時間を走らねばならぬとのことだった。

 ホームに近づき車体が緩やかな減速をかけるのに合わせ、ボート・アンド・トートの持ち手をしかと握り、画材箱の取手を持ち直す。例の本のほかには、何一つ荷を携えない八尾はいたく身軽な風で、高い鼻を手持ち無沙汰に擦ったりなんかしていた。

 やがて列車はその動きを留めた。

 ホームに降り立つと金属の匂いとわずかな煤の匂いが広がる。列車の発着に合わせて、人々のざわめきが波打つ。

 見馴れた東京駅のホームやコンコースとは作りが、当たり前だが違って、すれ違う人たちの相貌も、いずれもいくらか淡く平たい面持ちである。人のざわめきさえも東京のものとは異質で、ほんの少し外国めいた場所に辿り着いた心地がした。

 先を行っていた八尾がふいに振り返った。

「お腹空いただろ。どうする」

「お腹? 私、大丈夫ですよ。お気遣いには及びません、」

 彼はふしくれだって細い指で自分の顎を撫でる。

「やあ、僕の腹が減ったんだ。駅前の食堂にでも寄ってから、また乗り換えよう。構わないか」

「はあ」

「郡山にも色々あるね。うすいは昔からあるけど、クローバーだとかトミヤだとか。最近は丸光とかいうのも出来たらしいよ。栄えてるよね」

 改札を出れば、地方都市らしい駅前通りがやや閑散として構えていた。雨は止む様子を知らず、土砂降りというほどでもないが、私は手持ちの日傘を雨傘代わりにしようと留め具を外した。八尾は無論、手持ちの雨除けなど持ってる風でもない。しかし雨に濡れるのを厭わない人なんだから、それでいいのだろう。

 迷う様子もなく、屋根のある所を、お構いなしにいつもの歩幅で彼は歩んでいく。私は自然とかけ足になって、サンダルのストラップが引っかかって、カミソリで切ったような一瞬の痛みが走った。ああ。

 中学高校を女学校で過ごし、さらには女子美術大学に進学した私は、身内以外の男性と交わる機会など、二十一になった今も指で数えるほどしかない。けれども、そんな乏しい経験しか持たぬ私でさえ、彼には紳士の気配りというものがどこか欠けているということは常々感じていたことだった。

「あんな列車じゃ、気兼ねなくたばこも吸えないから嫌だねぇ」

 八尾はそう言って、いつものよれよれの緑のパッケージから草臥くたびれた紙巻きを一本取り、歩きながら口に咥えた。湿気のせいか、ジッポーに火をつけるのに手間取っている。

 こちらを窺って、彼は首を竦めた。

「家族連れが多かっただろ」

「気にしない人が殆どじゃないんですか」

「僕は嫌だったんだよ、親父とか、じいさんとか、男衆が吸っていたたばこの煙。こっちに構わず食事中もスパスパさ」

「はあ」

「マ、今となれば僕の方が吸わずにはいられないんだな」

 吐き出した煙を片手で払う。

 紙巻きを口に咥えたままの八尾が、急に立ち止まった。

「腹も減ったし、あそこでいいかな」

 視線の先には、赤い日よけに喫茶・スナックと銘打った食堂があった。つる草が旺盛に伸び、木枠の窓やひさしに絡みついていた。表に出たショーケースは辛うじてつるの絡みから逃れ、そのガラス越しには、ナポリタンやミートソーススパゲッティの類いがうずを巻き、ハムサンド、卵サンド、ミックスサンド、ジャム、バターなどなど、トーストがぎっしり並んで、コーヒー豆の焦げた香ばしさがふわりと漂ってくる。

 なるほど、銀座界隈にありふれた純喫茶文化は、東北の入り口にも確かに根付いているようだった。

 良いですね。まだそう言っていないのに、鉄骨の足場のおかげで雨を凌げていたその場から、彼は何の気なしにどんどん進む。

「ちょっと、待って」

 慌てて日傘を広げる。あの人のあの不思議な大胆さは、もはや野蛮と言っても、きっと差し支えあるまい。


 4


 灰色の雨雲の向こうからわずかに暗い光が、アーチ型の窓を通して差し込んで来る。二つの窓辺には薄いレースのカーテンと深紅のベルベットドレープ。しとしと鳴る雨粒の音楽。

 店の奥、テーブル席の革張りの低いソファに私たちは通された。

 店内を見渡すと、オレンジ色のペンダントライトがあちらこちらから吊り下げられ、壁面には、旅の思い出か、数枚の写真や絵葉書が無造作に貼られていて、それらは時を経、色褪せて佇む。席の近くのジュークボックスから、サラ・ヴォーンの軽妙な歌声が響いている。

 短冊型のオーダー帳を左手に、ボールペンを右手に、店主が近づいてきた。頬の皮膚は重たげに垂れ、骨ばった顎の下へと滑り落ちて、薄暗がりの店内では影のように揺れる。だけど、その崩れゆく造作のただなかに、厚みのあるねずみ色の眉が柔らかく弧を描いていた。

 ともかく、私がさしてお腹を空かせていないというのは本当だった。

「スコーンとレモンティーをお願いします」

 店主が書き写すペンの音。八尾は本当にひもじかったようで、メニューに長いこと向き合っている。

「じゃあ、僕はローストビーフ。あとプラムケーキを食後に」

 注文を終え、八尾は直ぐさまコンパスのようなその長い足を組んで、二本目の紙巻きを咥えてジッポーに近づける。発火石とフリントホイールが、今度こそ一度で火花を散らした。

「前から気になってたんだが、君、あんまり食べないんだな。若いし周りより背も高いんだから、もう少し何か口にしたほうがいいんじゃない」

 紫炎をゆっくりと口の端から溢すみたいに吐いた。八尾は上目で私を見て、首を傾げてくる。

「食べれないんです」

 冷えた水の入ったガラスのゴブレットに目線を落とした。

「アドヒージョンって言うんですか。昔の手術した所が、悪くなっちゃって、食べ過ぎが良くなくて」

「へえ、術後癒着」

 彼の表情に好奇が宿ったのを何となく感じて、居心地が悪くて喉も乾いてないのに水に何度も口を付けた。

 少しくして料理が運ばれてくる。

 青いお皿には、第一礼装モーニングの紳士帽みたいなころりとした形の、英国風スコーンが二つと、クロテッドクリーム、それに真っ赤につやつやと光る苺ジャムが添えられている。レモンティーは、はからずも私が今日着ていたワンピースと同じすみれ柄のカップに注がれて、ささやかな輪切りが浮かんでいる。

 スコーンの真ん中にナイフを渡らせてクリームを薄く塗っていると、彼の方にも料理が届いた。平たいお皿にはローストビーフと付け合わせのポテト、人参、ブロッコリーの茹で野菜、それといっぱいに膨らんだヨークシャープディングが、とろっとしたグレイビーソースがたっぷりとかかって、湯気だっている。

「良い匂いだ。中々いい店を見つけたんじゃないか? 僕たち」

「そうですね」

 外はかすかにさっくりと香ばしく、中はふんわりと軽く、甘くない。クロテッドクリームのまったりした乳香にジャムの甘酸っぱさが、実にいい塩梅に舌で溶けていくから、驚いた。

「それで——」

 銀のフォークで付け合わせの野菜とソースをひと口味わった八尾は、右の眉だけ器用に上げて、ナプキンで口元を拭う。

「学校はどうだい、最近」

 なにか、その目に刺されたような感じがした。

 急に雨音が大きく聞こえて、サラ・ヴォーンのヴィブラートが遠くなる。

「……変わりありませんよ」

「今、前期のど真ん中だろ。課題の調子はどうなってる?」

「あまり進んでないです。モチーフもまだで」

「ああそうなの。僕も一昨年はそういう感じだったかな」

「冗談、よしてください」

 私と彼は、きっと違う。

 八尾は二十四で芸大に入学し、その卒業制作は西洋学科の選定にあずかり、大学側が買い上げるに至った。要するに、その年の主席の栄を担った人物だ。では彼はそれまでの歳月をいかに過ごしていたのかといえば、単に浪人生をしていたとかではなく、フランスのアカデミーや美術アトリエに留学していたのだそうだ。

 彼と私の間には、どうしようもなく深い峡谷が横たわっているように思えて仕方がない。

「……前に頂いたチケット、三越の展覧会の。カミーユ・コローはそこまで存じ上げてなかったのですが、佳い絵でした。つい帰りがけにバルビゾンの画集も買ってしまって」

「気に入ったの。それは結構だね。バルビゾン派と言えば、ドビーニーの作もあるだろ? ほら、七星で知られる」

「画集で拝見した気がします。たしか、水の画家と呼ばれてたとか、そんな人ですよね」

「うん。家人がことさらに好んでいてね、我が家にも彼の絵を置いてるんだ。後で是非御覧に入れよう」

 カーヴィングナイフが薄桃色の肉を静かに裂いた。刃先に沿って、柔らかな繊維からじわりと肉汁がにじみ、皿の白磁に艶のある筋を描く。その光沢が眼鏡の銀縁に映り込んだ。

「そういえば。今日は眼鏡ですね」

 八尾といえば、よく目の表面に小さなガラス片みたいな不思議な矯正具を入れていた。

「面倒だけど、ここ数日目が充血してきたもんだからレンズは辞めておけとさ」

 町の眼鏡屋に並んだ既製のもののブリッジは、どうもその高い鼻梁にはしっくりと合わぬらしく、しきりにおさまり悪そうに鼻筋へ指をやった。

「修司さんは、最近は何を?」

 彼は卒業後、下宿を出払うこともせずに、未だ新宿とか上野をふらついている。

 問いかけに、最後のプディングでソースを拭い、食べる。

「何をってこともないさ。絵もろくに描かず、ただそこらを歩いてるだけだ」

 顎を動かしているその顔には、焦りとも倦怠ともつかぬ翳りがさしていた。

「でも、部屋の方にはいつも人が出入りしてらっしゃる」

 八尾の部屋は、下宿の二階奥にあった。扉横には常に何かしらのキャンバスが立てかけられ、部屋の前の廊下には絵具チューブが、惨事が起きた後なのか時折り散らばっている。中は、暮らしのにおいよりも、絵具のシンナー臭と紙巻きの煙とがただ無造作に積もっているだけの空間だ。私は下宿の女将さんの部屋のほうに身を寄せているが、彼に関する苦情を耳にしない日は一日としてない。

 不思議なことに、その部屋へはよく、見知らぬ人びとが出入りした。雑誌社の編集らしい男が原稿用紙を小脇に抱えて来ることもあれば、どこかの画廊に勤めているらしい女が花束を手に現れることもある。ときには、画壇に属しているのかもわからぬ同世代の画家たちが、夜更けにビール瓶を提げて転がり込んで来ることさえ。

「まるで磁石のようですね」

 つい洩らした私の言葉に、八尾は前髪を鬱陶しげにかきあげた。そこに皮肉った意図は、実際無かったのだが、彼はどう捉えたのか

「……おそらく僕は、さ。なおもデカダンティスムを気取りつつ、自己猶予のモラトリヤムに甘んじていたいだけなんだろうなあ。なんて、最近は思ったりするのさ」

 と、自嘲気味の冷たい苦笑を口端に浮かべ、

「君はどう思う?」

 突然に訊いてきた。

 何を答えればよいのか、大いに迷った。

「……」

 何を言うにつけても正解などないように思える。結局は沈黙を選んだ私は、視線を逸らして、レモンティーの残りをゆっくり喉に流した。

 ちょうどそこに、話を聞いていたようなタイミングでプラムケーキが運び込まれてくる。

 プラムケーキは、オーブンから取り出したばかりなのかと思うほど温かく、焼き色が艶を帯びている。赤紫の果肉が生地にしっとり沈み込み、甘酸っぱい香りと染み込むバターの芳香が宙を漂った。

「フランスでプラムのクラフティを食ってから、プラムが大好物なんだよ」

 大変に甘ったるそうな感じで、見ているだけで思わず脇腹がしくしくする。これほどバターをふんだんに使った菓子料理、私には到底食べられそうにない。

「そんなものばかり食べて早死にしませんか」

「食べ物で早く死ねるのなら、それが本望だよ」

「またそんなことを」

「本気さ」

 彼は心底美味しそうに、血みたいに赤いすももを頬張った。


 5


 昼食を終え、再び郡山駅へ戻り、磐越西線の列車に乗り込む。

 朱色とクリーム色の車体は低く唸るディーゼルの音だけを響かせ、車内はがらんとしていた。座席に腰を下ろしているのはせいぜい数人ほどで、本線と違って、明らかにローカルな様相だった。

 私はクロスシートの窓際に腰掛け、トートバッグからスケッチブックを取り出した。いつもの大判のA3ではなく、B5の小ぶりなもの。ページはまだ白く、鉛筆を手にしても、深く思い悩むつもりはなかった。ただ、何か線でも残しておくほうが、少しは気が落ち着くだろう——そう思ったにすぎない。

 向かいで例の本を読み始めた八尾をちらと見遣り、すぐにまたスケッチブックに目を落とす。

 ここのところ絵のことなど考えないようにしていたけれど、こうして線を置くと、何となく形になっていった。



——この時代に『ただの絵』を書いて、一体何になるって言うんだい。

 ため息混じり、教授がさりげなく口にした一言。

 その言葉が今になっても頭の片隅でくすぶり続けている。

 三回生になっても、私はまだ同じことを繰り返している。影と光を丁寧に描き、形を整えることには慣れたが、そのたびに、自分の声はどこにあるのだろうと考える。技術は、写実力は、全て表現の下地でしかない。

 描けることと、心に響くこととは違う。模倣の域を出ないことは、誰も否定しないけれど、満足もさせてくれない。描くことは手の運動じゃなく、思考の運動だと思っていたのに、気がつけば思考も手も、何も自由じゃなくなっていた。

 加えて大学も折り返し地点に来て、卒業後はどうすればいいのか、頭の隅でずっと考えている。美大進学は父親の反対を半ば押し切る形だった割には、仕送りの上に成り立つ生活。


 午後、その日は珍しく大学のアトリエにはもう人影が少なかった。課題のデッサンを画板に置いたまま帰り支度をする学生ばかりで、これから残ろうとするのは私一人。たまに遠くの工事音だけがあった。

 前期課題の構想は薄っすらとあった。図書室で借りたサロン・ド・パリ展図録をそばに、スケッチブックに横長の構図を鉛筆で淡く引く。絵巻物のように場面が連なる中、生田川に身を投げる菟原乙女うないおとめ——オフィーリアの水没イメージを借りて、群像の配置や動きを探っていた。小太刀で腹を切りながら川に身を捨てる菟原壮士うないおとこ

 そうだ。川面の反射や水泡を、金箔やホログラムとかオーロラ紙で螺鈿を再現して、人物の周囲に幻想的な光のベールをまとわせるのはどうか——

 そのとき廊下の方から硬い革靴のトントンという音が響いてきた。英国王室御用達とかいうあのぴかぴかのジョンロブ——靴からして自己主張の烈しい——の気配がしたら、教授が通りかかったのだとすぐ分かった。

「……これは?」

 五十路を越えて歳月の刻印が刻まれた男の顔は、私の嫌なことに、眼差しに不思議な輝きがあった。小さく鋭い目はまるで世界の秘密を知っているかのように光っている。頬は痩せこけ、鋭角的な口元には、こちらのねうちを測ろうとする嫌味な歪みを常に湛えている、そんな人だ。

 袖元の銀のカフスを弄り、私のスケッチを暴くみたいに見定めた。

「大和物語の……菟原乙女の妻争い伝説を、モチーフにしようかと」

「神話?」

「みたいなものです」

 重たい沈黙が落ちた。許されなければ息もしてはいけないような、そんな空気だった。

「ふうん。……ねえ。これを三回生になってやる理由は何かあるのかい?」

 返答に少し詰まる。

「……理由は、ジェルベーの。群像の構成を試してみたくて」

「成る程、憧れの画家の真似。それで? モチーフの理由は」

「ジェルベーの寓意画と、あとその色彩を、日本の古典の文脈で再現したらどうなるか……、と」

「あぁ、それねぇ」

 教授が息を吸った。

 あ、駄目だ。と思った。頬の内側に熱がこもり、全身を覆う皮膚が自分のものではないように感じた。次の言葉が刃になるとわかっているのに、耳を塞ぐこともできず、ただ、羞恥と屈辱が顔に昇るのを止められなかった。

「まあね、巨匠の構成をなぞるのも結構だが、結局は二番煎じの域を出ないわけだ。西洋画が肩身の狭いこのご時世に、君がジェルベー二世を続けることにどれほどの価値があるのか、私には些か疑問だね。……来年は四年生だろう、自分の表現ぐらい確立して見せてはどうだい」



 ああ、焦る。焦る、焦る、焦る。

 もう全部辞めてしまおうか。

 頭の奥で、あの日の言葉と焦燥とがぐるぐる回って止まらない。技術に縛られ、今の表現に届かず、ただ模倣の迷路を歩き続ける。

 自分はまだ、ただの影だ。


 ぽきり。

 スケッチ用の鉛筆の芯が折れるのがやけに響いた。

「どうかしたか」

「あ……」

 トンネル。暗闇の車窓に反射する自分の姿に少し息を呑んだ。

「酔ったの?」

 頬の薄紅色が完全に失せて、まるで死体みたいな肌になっている。切りそろえたばかりの髪が顔の輪郭を縁取って、余計にその病的な肌の色を際立たせていて、夜に浮かび上がった幽鬼のようにも見えた。

「なあ」

 心ここに在らぬまま、声がかかるまで、意識はほとんど自分の体の内側にしかなかった。

「おいってば、大丈夫か?」

 肩を掴んで、目を合わせて、呼吸を整えろとでも言うような手つきだった。胡乱げに細まった瞳の奥、そこにいた自分にハッとして、彼の腕をそっと咄嗟に払う。

 トンネルを抜け、外がいくらか明るくなった。

「……すみません、なんだか。疲れてるみたい」

「吐きたくなったらさっさと車掌に言うんだよ。こんな対面で戻されちゃ僕の方が堪らない」

「はい」

 八尾はそれでも不安そうに、君の吐瀉物なんか見たくないよ、とでも言いたげな露骨な表情をする。人前で戻すだなんて、私だって御免だし、その猜疑心にはお手上げと私は肩を竦める。

「ちょっと、前の車両に行ってきます」

 そう言って立ち上がると、視界が数度だけくらりと傾いて、座席の背に手をかける。彼は眉を寄せて心配げにしてくれていた。

 扉を押し開け、前の車両へと足を運ぶ。連結部の鉄がきしみ甲高い音を響かせる。デッキの小窓に映った自分は相変わらず青ざめ、血の気を欠いたままだ。

 わずか十数歩にすぎぬ移動であっても、教授のあの視線から逃れるには、果てしなく長い通路のように思われた。たかがひとつの車両移動だ。先頭車に足を踏み入れるとそこは静まり返っていて、仕切り窓の向こうで計器の灯がかすかに点滅し、運転士の制帽と濃紺のブレザーの背中が小さく見えるだけで、他には誰一人いない。

 最前列のクロスシートに一人、贅沢に腰を落ち着けた。窓を僅かに開け放てば、外は既に雨脚を強めており、吹き込む風には肌を刺すような冷たさがあった。

 拳を開く。掌の上に不格好に転がる銀紙に封じられた大つぶの錠剤を押し出す。それを無理やり喉に押し流し込んで。適切な服用手順なんていうものは既にどうでもよかった。

 頬に冷たい雨粒が打ちつける。今は何も考えたくない。何も。


  6


 気がつくと、私は滋賀の祖父母の家にいた。どのようにして辿り着いたのか、道すじも思い出せない。澄んだ水が、夏の陽射しを受けて底の小石まできらめいていた。

 琵琶湖西岸に連なる比良山系からの伏流水が湧き出る集落には、アマモとバイカモと小舟の影が揺らめくクリークが家々の軒先に走っていた。水路の石縁に座って、冷たい水に足を差し出すと、水草が脛をくすぐって足の裏をドジョウが掠めていく。

 祖父母の家、二階のサンルームを、水路から仰ぐ。ガラスのパネルに囲まれた張り出し窓越しに祖父が立っていた。勾配のついた天井から燦々と差し込む日光に、繭が淡く黄金色に輝き、籠ごとに小さく揺れていた。手際よく繭を並べる祖父の背中は少し丸まり、見慣れぬ熟練のリズムを刻む姿は、私の目にはどこか冷たく、知らない人のようにも見える。

 庭の方では、濡れ縁に腰かけた兄と姉が、とうもろこしにかぶりつきながら、わかば色の扇風機の風に当たっていた。姉と喧嘩したばかりの下の兄は、不機嫌さを滲ませた顔のまま別の家の子供たちと川へ遊びに行って、いない。夏の太陽がじっと家の木目を照らす。

 これは記憶だ。

 水の中で足を揺蕩わせていれば、ふいにそう思った。

 戦時中から母は私の兄弟と一緒に、母方の両親で寄生地主と養蚕を兼業する豪農だった祖父母のもとにしばらく身を寄せていた。そのさなか——戦後一年——に私はそこで産まれた。

 低い風が吹く。

 砂金を一気にちりばめたように水面がきらきらしく輝きはじめて、やがて光で視界が埋まる。

 場面が変わった。

 私は祖父と一緒に山道を歩いていた。桑畑から山ほど摘んだ葉を、どっさりとアルミのリヤカーに載せ、祖父は険しい顔つきのまま黙々と引いてゆく。私はその中で桑の葉を布団のようにして寝転がり、薄く目を開けては、クヌギの枝からこぼれる光をまぶたに受け、遠く近く重なり合う蝉の、シャワシャワと鳴く声を聞いていた。

 一番歳の近い下の兄でさえ、末の私とは十は離れていた。なかなか友人も作れなかった私の遊び相手は、もっぱら仕事中の祖父母だった。

 通り過ぎていく野苺の茂みに身を乗り出し、ひと粒千切って食べる。

「ハラ壊すで、オメ。偉いことなるで」

「食べてんし」

「食うたやろ」

 私は好き嫌いのはげしい子供で、食卓ではいつも気難しい顔をしていた。母も祖母も、その機嫌を損ねぬようにと出すものに気を配っていた。ひとたび口に合わぬものを含めば、泣き出して吐き戻すのだから、大人たちは仕方なく、与える物ごとに神経をとがらせていた。

 夏蚕なつごの季節になると、山腹にある養蚕小屋では蚕に桑を食べさせて、まぶしで繭を育てさせはじめる。そのうち祖父母の蚕は私の腕一本ほど大きくなって、美しい絹を作るのらしい。

芳佳よしかんとこで遊んだらええやろ」

や言われた」

「なんや、意地の悪い」

「習い事のお友達が、わたしのこと嫌いやて。だから」

「何しでかしたんや」

「知らんし」

 姉の芳佳は私が五つのとき十七歳で、洋琴ピアノの習い事の友達とよく遊んでいた。物心つき始めた頃で、何が気に障ったのかは分からないが、私は姉の周りの女友達にはあまり好かれていなかったそうだった。よく泣くのが可愛く思えなかったのだろう。

 幼い私は祖父と話していた。しかし、それは私自身の意思に依るものではない。まるでキネマを観るように、私は自分の身体を遠くから眺めていた。

 暫く進むと、開けた場所に出た。

 漆黒の瓦屋根を敷く横長の平屋は、蚕が繭を作るためだけに建てられ、季節以外は人の立ち入ることもない。

 引き戸を押すと暗闇が静かに迎え、天井から何百もの空の回転蔟がぶら下がっている。棚では、無数の蚕が蠢き、桑の葉をむしゃむしゃと噛み、腹で這う音が、最初は微かだったのに、耳を澄ますとやがてざわめきとなって辺りを満たした。

 小さな私は祖父を探して手を伸ばすが、辺りを見回しても、祖父の姿はない。

 気がつけば、採光窓からの光も消え、まるで宇宙に浮かんでいるかのような闇に包まれていた。扉は閉ざされ、蚕のために灯りひとつない小屋に、私はひとり閉じ込められている。目を凝らしても無駄で、何も見えず、何も分からず、ただ胸の奥が冷たく締めつけられた。

 白い芋虫が生きた織物のようにうねり、深淵から私を見つめている気がした。口先の下にある「吐糸口」から、透明がかった細い液体がすーっと伸びる。それは空気に触れた瞬間に固まり、まるでガラスの細糸のような光沢を帯びて、身体をゆっくりとS字に動かしながら、休むことなく糸を吐き続ける。

 細い絹糸が指先にまとわりつき、どう引き離しても絡みつく。逃げられない。繭に閉じ込められていく。

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レイクサイド・ハウス @creamy_milk_pudding3

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