Episode.33 試練の呼び声

朝日が昇りきる前の王都アルセリオ。

夜の静けさを破るように、街のあちこちで悲鳴と怒号が入り混じった。


「逃げろ! 瘴気だ――!」


黒い靄はじわじわと石畳を這い、まるで生き物のようにうねりながら広がっていく。

一筋の煙に見えたそれは、瞬く間に地面を覆い尽くし、通りの街路樹や花壇の花々を触れただけで枯死させた。

鮮やかだった緑は黒ずみ、彩りを放っていた花々は灰のように崩れ落ち、辺りには甘ったるくも腐敗を思わせる異臭が漂い始める。


「ひっ……! 足が……! 黒く……!」

逃げ遅れた市井の男が、足にまとわりついた瘴気に悲鳴を上げた。

皮膚は瞬く間に痣のように変色し、血管が浮き出るように黒く走る。

やがて足は鉛のように重くなり、男は膝をつき、胸を押さえて荒い呼吸を繰り返す。


「しっかりしろ! すぐ助けを……!」

兵士が駆け寄り、剣を抜いて瘴気を斬り払おうとする。

しかし――刃は空を切るばかりで、黒い靄は嘲笑うかのように形を崩しては再び絡みつく。

「効かない……!? なんだこれは!」


「離れろ! 触れるな!」

騎士の怒声が通りに響くが、すでに多くの市民が咳き込み、地に崩れ落ちていた。

目を覆いたくなる光景――黒い靄に絡まれた者たちは皮膚を侵され、身体は冷たく硬直し、意識を失っていく。

抱き起こそうとした母親の手までが黒ずみ、絶望の叫びが街中を覆った。


王都の中心に聳える大聖樹――。

月光に濡れた白銀の塔のような姿は、朝日の下で異様な影を帯びていた。

その巨躯は大地ごと震え、枝葉は強風でもないのにざわめき続ける。


まるで内部に閉ざされた何かが、必死に叫び、外へ漏れ出そうとしているかのように――。


その震えに呼応するように、王都全体の空気は淀み、空の色さえ鈍く変わり始めていた。

市民の間には恐怖と混乱が渦巻き、王国の象徴たる聖樹が「死の源」となりつつある現実を、誰もが否応なく突きつけられていたのだった。




翡翠議会の広間は、朝の光を拒むかのように重苦しい空気に満ちていた。

王都各地から次々と報告がもたらされ、そのたびに議員や軍の将校、研究院の学者たちが声を荒げる。


「聖樹そのものが腐蝕に侵されている!」

議長オルフェン・グリューネの怒声が石造りの壁に反響した。

白髪を後ろに束ねた老議員の眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には怒りと焦燥が混じっている。

「森番の術では抑えきれん! 我らの結界はすでに枝先にすら届かぬ……!」


「翠脈炉の理論では説明できんのだ!」

王立樹機院のニルチ院長もまた、机を拳で叩きつけて声を張り上げた。

広げられた図面や解析式は無意味に散乱し、眼鏡の奥の瞳は血走っていた。

「樹内で未知の共鳴が起きている! 腐蝕か、それとも外部からの呪毒か……分からぬ! だがこのままでは王都全体が呑まれる!」


学者たちは口々に理論をぶつけ合い、森番の議員たちは古の掟を持ち出して反論する。

「聖樹を切り開くなど言語道断!」

「だが黙して滅びを待てというのか!」

言葉は罵声に変わり、広間はもはや議論ではなく混沌の渦と化していた。


その中で、第一王子アルトリウスが椅子を蹴り立ち上がった。

金の髪を振り払い、腰の剣を引き抜く。

「討つべきは瘴気そのものだ!」

彼の声は広間を震わせ、場を一瞬静めた。

「腐蝕の源を放っておけば民は皆死ぬ! 我が剣で聖樹の中に踏み込み――」


だがその腕を、屈強な手が制した。

グリーンウォーデン隊長、ゲイル・ハルトマン。

漆黒の外骨格ウルヴァリン型を背負ったまま、彼は無言でアルトリウスを押しとどめる。

「殿下……今突入すれば兵は無駄死にする」

低く響く声には、冷徹な現実が込められていた。


「ならば見殺しにしろと言うのか!」

アルトリウスは怒りに顔を紅潮させ、ゲイルを睨み返す。

だが彼の背後で控えていた兵士たちの表情もまた、恐怖と葛藤に揺れていた。

命令一つで瘴気の海へと踏み込む覚悟はあっても、その結末が「確実な死」であるなら――。


「王子の剣は希望となるだろう。だが希望だけで勝てる戦ではない」

ゲイルの言葉に、一瞬、広間が沈黙した。

しかしその静けさは短く、再び議員たちの声が入り乱れる。

「軍を動かせ!」「結界を張り直せ!」「まず民を避難させろ!」


翡翠議会の石造りの広間は、王国の命運を決めるはずの場でありながら、

もはや混乱の坩堝と化していたのだった。




その頃――アウルディーン=ネクサスの観測窓。

広がる王都アルセリオは、もはや夜明けの光を拒むかのように黒い靄に覆われていた。街灯も炎の明かりも、瘴気の影にかき消され、民の悲鳴だけが遥か上空に届いてくる。


ネルフィは仲間たちと共に、その光景を見下ろしていた。

小さな掌がガラスに触れる。冷たい感触が胸の奥の緊張と重なり合い、だがその瞳には迷いはなかった。


「……もう待てない」

声は低く、しかし力強かった。震えは一切ない。


「母の遺産も、ソルシエルの試練も……きっとこの異変と繋がってる。

なら、避けるんじゃなく――正面から挑むしかない!」


言葉に込められた意志が仲間たちの胸に響き、場の空気を変えていく。


レオンがゆっくりと剣を抜いた。刃が月光を映し、鋭い光を放つ。

「……俺も行く。瘴気に呑まれる前に、必ず根源を断ち切る。たとえこの身がどうなろうとも、リュシェルを、そしてお前を守る」

彼の赤い瞳には、帝国の血を引く自らの宿命を断ち切るような覚悟が宿っていた。


アイリスは素早く端末を叩き、虹色の光が彼女の眼鏡越しに反射する。

オラクルのホログラムが浮かび上がり、冷たい電子の声が響いた。

《大聖樹の内部構造を解析中――瘴気の発生源、樹冠深部に存在。進入ルートは複数確認》


アイリスは深く息を吐き、指を止めずに言葉を重ねた。

「進路は私たちが導くわ。だけど……樹の内部は生きてる。道そのものが敵になる可能性がある。抵抗される覚悟をして」

その声音には、科学者としての冷静さと仲間を守ろうとする強い決意が混じっていた。


リュシェルは胸元のネックレスを強く握りしめ、一歩前に出た。

蒼い瞳が揺らぐことなくネルフィを見据える。

「ネルフィ……私も共に行く。この国の未来を守るために。そして、誰かに強いられるのではなく、自分の意思で戦うために」


その言葉には、王女としての責務だけでなく、一人の少女としての覚悟が込められていた。


そして――その瞬間だった。

窓の向こうで、大聖樹が低く呻くように揺れた。

枝葉が波打ち、樹冠からさらに濃い瘴気が噴き出す。黒い雲が王都の空を覆い、遠雷のような轟きが腹の底に響いた。


――これは偶然ではない。


ネルフィは直感する。

これは「拒絶」ではなく「呼び声」。

彼女を待ち受ける試練が、「兆し」から「現実」へと変わった瞬間だった。


「……ソルシエル」

ネルフィは胸の奥で、精霊の名を静かに呼んだ。

その瞳は決意の光を放ち、仲間たちと共に進むべき未来を見据えていた。




ネルフィは深く息を吸い込み、仲間たちを振り返った。

その瞳には、もはや迷いはなかった。社長として、そして一人の戦士として――今ここで示すべきは、決意の言葉。


「行こう。大聖樹の奥に――ソルシエルの試練が待ってる!」


その一言は、炎のように仲間たちの胸に燃え広がった。


レオンが剣を高く掲げ、鋼の意志を込める。

「どんな瘴気だろうと、俺の刃で必ず斬り裂く!」

その声には帝国の血を引く王子としての葛藤を超えた、ひとりの戦士の決意があった。


アイリスは端末を肩に抱え、眼鏡の奥で瞳を光らせた。

「解析は続行中。データは必ず道を切り開く! 私に任せて!」

彼女の指が走るたび、オラクルのホログラムが虹色に揺れ、樹の内部構造を仮想投影する。


ゼルダンは刃を回し、唇の端を吊り上げる。

「へっ、また面倒ごとに首を突っ込むか。いいぜ……俺は影を駆けて真実を暴く」

その軽薄な笑みの裏に、闇の路地で生き抜いてきた男の覚悟が潜んでいた。


リュシェルは胸のネックレスを握り、毅然と顔を上げた。

「ネルフィ……私も最後まで共に行く。この国を守るのは、私の誇りだから!」

王女ではなく、一人の少女として放ったその言葉に、皆の背筋がさらに伸びた。


仲間たちの想いがひとつになった瞬間――アウルディーン=ネクサスの艦内に、振動が走った。

窓の外で、大聖樹が地鳴りのように低く唸り、樹冠から濃い瘴気が渦を巻きながら噴き出していく。

王都の空は昼なお暗く、まるで天すらも試練を拒むかのようだった。


ネルフィはその光景を一瞥し、力強く頷いた。

「この試練は、逃げるためにあるんじゃない。私たちを選ぶためにあるんだ!」


次の瞬間――仲間たちは一斉に武器と術式を構えた。

火花が走り、魔導陣が展開し、空気が震える。


――王都を覆う瘴気と、大聖樹の守護精霊が示す試練。

ついに、それが本格的に幕を開けたのだった。

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