Episode.32 大聖樹の囁きと精霊の試練
夜明け前の王都アルセリオ。
まだ薄暗い空に、わずかな暁の光が滲み始めたその時、街の至るところで人々が足を止め、同じ方向を仰ぎ見ていた。
王都の中心――悠然と聳える大聖樹。
いつもなら、夜明けを告げる光を受けて白銀のように輝き、人々の祈りと安心を象徴する存在だった。
だが、その日の大聖樹は違っていた。
「……あれは……何だ……?」
市場で荷を運んでいた商人が呟く。
「黒い……霧?」
子供を抱えた母親が震える声を漏らす。
樹冠の奥から、どす黒い靄がゆらゆらと垂れ落ちてきたのだ。
最初はただの霞に見えたが、地表に触れた瞬間、光を失った葉は茶色く枯れ、花壇に咲いていた花々は萎み、石畳を這うように瘴気が広がっていく。
街路樹が黒ずみ、鳥たちは鳴き声を上げて四散した。
「大聖樹が……!」
「聖樹に異変が……!」
市民たちは恐慌に駆られ、祈りの声と悲鳴が入り混じる。
その報告は瞬く間に王城へ届き、翡翠議会の広間は早朝にもかかわらず緊急招集された議員や騎士で溢れかえった。
翡翠色の大理石で囲まれた広間で、議長オルフェン・グリューネが立ち上がる。
白髪を束ねた老体だが、その声は雷鳴のように響いた。
「腐蝕の影響が聖樹に及ぶなど、前代未聞だ! 聖樹は王国の生命線。あの巨樹が倒れれば、瘴気は一気に王都を飲み込む! このままではアルセリオそのものが汚されるぞ!」
議場は騒然となった。
「軍を出すべきだ!」「いや、研究院の浄化術式を試すべきだ!」
「市民の避難を優先しろ!」
互いの声が飛び交い、収拾がつかない。
王妃セラフィーナは険しい表情で沈黙を守り、第一王子アルトリウスは剣の柄を強く握りしめていた。
彼らの視線が一人に集まる。――ネルフィ。
少女は黙ったまま拳を握り、深く息を吐いた。
(やっぱり……昨日、観測窓から見たのは幻じゃなかった。あの黒い靄……大聖樹の奥深くに――瘴気が潜んでいる)
胸の奥で熱と冷たさが交錯する。
母から受け継いだ血が、確かに告げていた。
――これは偶然の異変ではない。試練の始まりだ、と。
その夜。
王都の喧騒が静まり返り、月が白銀の光を落とすころ――ネルフィは仲間たちに何も告げず、一人で城壁を抜けた。
向かう先は、王都の心臓部にそびえる大聖樹。
根本は厚い苔に覆われ、そこから立ちのぼる空気は夜気よりも冷たく澄んでいた。
まるで時の流れから切り離された聖域――誰もが畏れ敬い、近づくことすらためらう場所。
ネルフィは迷わず、その根の奥深くへと足を進める。
一歩、また一歩と踏み込むたびに、葉擦れの音が消え、街の明かりも遠のいていく。
聞こえるのは自らの心臓の鼓動と、月光に揺れる枝葉のざわめきだけ。
――そして。
手を幹に触れた瞬間、冷たい波が全身を突き抜けた。
鋭い痛みではなく、胸奥に直接響く震え。
まるで何かが目覚め、彼女を見つめ返したかのようだった。
「……来たか、エリュナの娘よ」
耳で聞いたのではない。
声は心に直接刻み込まれ、血と魂を震わせる。
翠の光が幹の亀裂から零れ落ちるように広がり、やがて形を結んだ。
月光を映すような長い髪、深く澄んだ瞳を持つ幻影。
その姿は揺らめきながらも荘厳で、目にしただけで膝を折りたくなる神秘があった。
――大聖樹の守護精霊、ソルシエル。
彼女の声は風の囁きのように静かでありながら、全てを見透かす厳しさを宿していた。
「大聖樹は今、帝国の呪毒と人の欲に侵されている。瘴気は幹を蝕み、枝葉を腐らせ、やがて王国を覆い尽くすだろう」
翠の瞳が鋭く光る。
「汝が母より継いだ血――古き一族の力は、この腐蝕に抗う唯一の鍵だ」
ネルフィの胸が強く震える。
母、エリュナ・アウルディーン。
かつて勇者の仲間として大陸を救ったエーシェントハイエルフ。
自分が生まれて間もなく命を落とした母は、今も人々の記憶に伝説として刻まれている。
――その血を自分が継いでいる。
ソルシエルはゆっくりと手をかざし、翠の光を彼女に向ける。
「汝が力を選び、制御する覚悟を持つならば、大聖樹は応える。だが心が揺らげば……遺産もまた、お前を滅ぼすだろう」
ネルフィは一歩踏み出し、真っ直ぐに幻影を見据えた。
「……私がやる。母のように、この手で必ず浄化する。大聖樹を、リュシェルを、王国を守るために」
その瞳には、迷いはなかった。
社長としての責任でも、幼馴染としての想いでもなく――ひとりの「継承者」としての決意があった。
ソルシエルの瞳がわずかに和らぎ、枝葉が静かにざわめいた。
「ならば、その心を見届けよう。近く、試練が訪れる……汝が真に受け継ぐ者かどうかを確かめるためにな」
翠の光が霧散し、森は再び静けさを取り戻す。
だがネルフィの胸には確かに刻まれていた。
――避けられぬ試練が迫っていることを。
夜風が彼女の頬を撫で、ざわめく葉がまるで警告のように響いた。
---
ソルシエルが腕のように枝を揺らすと、幹の奥からざわりとした気配が走った。
次の瞬間、大地に走る根の隙間から黒い靄が這い出し、重々しい影となって這い上がってくる。
それはやがて人影を形作り、冷たい囁きを一斉に放った。
《お前には無理だ》
《母もまた遺産に縛られ、命を落とした》
《お前が選べば、仲間も国も滅ぶ》
耳からではない。
声は直接、脳裏と心臓を揺さぶるように響き渡った。
ネルフィは息を呑み、思わず一歩足を止める。
目の前に現れた幻影は、輪郭の定まらぬ黒い人影。だが、どこか懐かしい声色を持っていた。
――まるで、自分の恐れや疑念が具現化したかのように。
胸の奥に冷たいものが広がる。
仲間を巻き込んでしまうのではないか。
母のように、遺産に縛られて命を落とすのではないか。
その囁きは、ずっと心の奥底に潜んでいた不安を抉り出していく。
(……私も……母と同じ道を……?)
ほんの一瞬、迷いが生まれかけた。
だが――ネルフィは胸元のネックレスを強く握りしめる。
母、エリュナが遺した小さな宝石。
そこには、母が生きた証と、確かに託された未来がある。
「……母を……侮辱するな……!」
その声は震えながらも、芯を持った。
「私は逃げない! 母は命を懸けて守った! その想いを継ぐのが……私の役目!」
ネルフィは魔導銃を構え、足元に錬金陣を展開する。
光の紋様が根元に広がり、銃口から迸る閃光が黒影を撃ち抜いた。
轟音と共に影は一瞬で霧散する。
だが――またすぐに集まり、再び形を取り戻す。
いくら撃っても、消えても、蘇る。
(……そうか。これは力の戦いじゃない)
ネルフィは歯を食いしばり、銃を下ろした。
これは試すための幻影。
力ではなく、心の揺らぎを見極めるためのもの。
逃げれば飲まれる。
怯めば喰われる。
だから――彼女は胸を張り、真っ直ぐに黒影を見据えた。
「私は……力に呑まれたりしない!」
「この力は私のもの! 私が正しく使う!」
「母が信じた未来を――私が掴む!!」
その声は根源を震わせ、巨木の奥深くへと響き渡った。
黒い幻影は一斉に震え、囁きは悲鳴へと変わる。
《……馬鹿な……心が揺らがぬ……!》
《この血は……エリュナと同じ……いや、それ以上……》
次の瞬間、幻影は砕け散り、瘴気そのものが光に呑まれた。
眩い清浄の光が大聖樹の根を包み、夜の空気が一気に澄み渡る。
冷たい囁きは消え、残ったのは葉擦れの音と、月光に照らされる静謐だけだった。
ソルシエルの幻影が再び揺らめき、深い瞳でネルフィを見つめる。
「――見事だ。汝は確かに、母の血を継ぎし者。だが忘れるな。これは始まりに過ぎぬ」
ネルフィは肩で息をしながらも、真っ直ぐ頷いた。
その瞳には、恐怖を超えた確かな光が宿っていた。
――こうして、ネルフィは「継承者」としての最初の試練を越えたのだった。
大聖樹の根を揺らすように吹いた風が、どこか柔らかくなった。
先ほどまでネルフィを苛み続けていた黒影は完全に砕け散り、残るのは月光を思わせる清浄な光のみ。
その光の中で、ソルシエルは静かに佇んでいた。
彼女は長い翠髪を風に揺らしながら、微笑みを浮かべた。
その瞳は深い森そのもののようで、悠久の時を超えてきた知恵を秘めている。
「……見事だ、エリュナの娘よ」
声は大地の奥から湧き出す泉のように静かで、同時にどこまでも力強い。
「お前の心は揺らがぬ。恐怖を抱きながらも、それを否定するのではなく、真正面から受け止めて乗り越えた。――ゆえに、遺産は汝を選ぶ」
その言葉と共に、ソルシエルは右手を軽く掲げた。
次の瞬間、大聖樹の葉がざわめき、翠の光が雨のように降り注いだ。
光は渦を描きながらネルフィの胸に流れ込み、心臓の鼓動と重なるように響きを広げていく。
そして――彼女の眼前に、ひとつの幻像が浮かんだ。
黒と金の表紙に覆われ、背表紙には古代文字が刻まれた厚き魔導書。
開かれた頁には星辰と影の文様が舞い踊り、現世の知識とはかけ離れた光と闇の紋章が刻まれている。
――禁忌の
「これは力そのものではない。選択の書だ」
ソルシエルの声が低く響く。
「正しく使えば奇跡を生み、誤れば破滅を呼ぶ。お前の母も、この存在の片鱗を知っていた。だが決して手を伸ばさず、未来を託した」
ネルフィは本能的に息を呑んだ。
その本から放たれる気配は、ただ強大なだけではない。
光と闇、善と悪――二つの相反するものが常にせめぎ合い、触れる者の心を試そうとする圧倒的な存在感。
だが彼女は胸元のネックレスに触れ、目を閉じて深く息を吸った。
母、エリュナの温もりを思い出し、その面影を胸に描く。
「……必ず守る」
小さな声だったが、やがて強く響く誓いとなった。
「母がそうしたように。――この力を正しく使い、リュシェルを、王国を、仲間を……未来を守る!」
ソルシエルの表情がわずかに和らぐ。
彼女の幻影は静かに頷き、だが次の言葉には鋭さがあった。
「忘れるな、ネルフィ。これは始まりに過ぎぬ」
「大聖樹を蝕む腐蝕は、もはや枝葉に留まらず、王都全土に広がろうとしている。次に試されるのは――お前一人ではなく、この国全体だ」
ネルフィは唇を結び、まっすぐにその視線を受け止める。
重圧は感じていた。だが退く気はなかった。
母が命を懸けて守ったものを、自分が繋ぎ、次代へ渡さねばならない。
――そのためならば、どんな試練も恐れない。
ソルシエルの姿が風に溶けるように揺らぎ、やがて森の奥に霧散していった。
残されたのは、胸奥に刻まれた《エクリプス・コード》の幻像と、ネルフィの確固たる誓いだけだった。
彼女は深く息を吐き、静かに夜空を仰ぐ。
月光の下で輝く大聖樹は、依然として美しかった。だがその奥に潜む黒い脈動は確実に広がっている。
(……始まった。もう迷わない)
その瞳に宿った決意は、母の面影を超えて、新たな未来へと向けられていた。
同じ頃――王宮の奥深く、豪奢な装飾に囲まれた一室に重苦しい空気が漂っていた。
厚いカーテンで閉ざされた部屋の中、蝋燭の炎だけが揺れ、長机の端で宰相ヴァルター・クローヴィスは冷ややかな目を細めていた。
「……大聖樹が揺らげば、翡翠議会は混乱し、軍もまた右往左往するだろう」
低く呟きながら、彼は机上に広げた地図に指を滑らせる。
王都アルセリオを中心に描かれた街路と防衛線。その一点――大聖樹を示す場所に、赤い印を打ち込んだ。
背後で待つ密使が問う。
「宰相閣下……本当に、帝国に通じられるのですか? この国を……」
「愚か者」ヴァルターの声が鋭く部屋を切り裂いた。
「私はこの国を売るのではない。私が支配する未来のために必要な秩序を築くだけだ。帝国と繋がるのは、そのための道具にすぎぬ」
その眼差しには忠誠も正義も存在しない。あるのは、己の権力欲と保身だけ。
「……伝えよ。王都が揺らげば、帝国はすぐに動けると」
密使は頭を垂れ、闇の中に消えていった。
一方――国境を越えたヴァルドラン王国の宮殿でもまた、異なる企みが進んでいた。
赤い絹の帳が垂れる広間。その中央に立つ王子ラグナは、遠方から届いた報告に目を細めていた。
「……聖樹の異変、か。実に好都合だ」
彼は杯を揺らし、琥珀色の酒を唇に含むと、冷ややかな笑みを浮かべた。
「リュシェル殿下を縛る理由は、これでさらに強まった。王国は聖樹を守るために奔走せねばならぬ。余裕などあるまい」
背後に控える側近が口を開く。
「ですが、殿下。彼女は既に婚約を拒絶しております。このままでは……」
「拒絶?」ラグナは薄く笑った。
「拒絶など、力の前では意味を持たぬ。――選択肢を潰してやればいい。国を救う道は“私と結ぶこと”しか残らぬと分からせれば、王女とて抗えはしない」
杯を置く仕草さえも冷徹で、声の奥には不気味な愉悦が潜んでいた。
「そして闇ギルドも、私の計画に動いている。腐蝕の十二柱も、影で息を潜めている。……あの工房の小娘とて、この流れを止められると思うか?」
ヴァルターの策謀と、ラグナの冷笑。
二つの陰謀は王都の内と外から迫り、王国を蝕む瘴気のように静かに広がっていく。
――その影が、やがてネルフィとリュシェルを飲み込み、新たな試練へと導くことを、まだ誰も知らなかった。
夜明け。
王都アルセリオの空が白み始めても、王都の象徴たる大聖樹はなおも黒い靄を吐き出していた。
荘厳であるはずの樹冠はざわめき、不自然に枝葉が震え、根本から這い出す瘴気は街路を這う蛇のように石畳を黒く染めていく。
人々は家の窓や広場に集まり、怯えた顔で聖樹を仰いでいた。
「聖樹が……こんな……」
「まるで怒っているみたいだ……」
母親が子を抱きしめる姿。兵士たちは剣を抜き、しかし靄を払えず戸惑うばかり。
その様子はまるで、王都そのものが心臓から蝕まれていく瞬間のようだった。
――翡翠議会。
オルフェン議長は机を叩き、怒声を響かせていた。
「これが外からの腐蝕にとどまらぬ証! 大聖樹そのものが病んでいるのだ! 放置すれば王都は瘴気に呑まれるぞ!」
研究院のニルチ=ヴェルナーは冷や汗を拭いながら唸る。
「翠脈炉の出力では対応しきれん……。大聖樹の根源に何かが……」
軍部のゲイル隊長は黙して腕を組み、アルトリウス王子は剣を握りしめたまま聖樹を睨んでいる。
場を覆うのは恐怖と苛立ち、そして得体の知れぬ不安だった。
――その頃。
アウルディーン=ネクサスの観測窓に立つネルフィは、誰よりも強く聖樹を見つめていた。
胸に響くのは昨日の夜、ソルシエルが告げた言葉。
「試練」という響きは幻ではない。確かに現実となり、こうして王都に迫っている。
(ソルシエル……私は逃げない。母が守ったように、私が受け継いだ血と遺産で――必ずこの国を守る)
ネックレスを強く握りしめた瞬間、脈動が掌を震わせた。
それはエリュナの残した力が共鳴している証。
「ネルフィ……」
背後でリュシェルが呟く。その蒼い瞳には不安と、揺るぎない信頼が共存していた。
ネルフィは振り返り、幼馴染の瞳を見つめて力強く頷く。
「大丈夫。どんな試練が来ても、必ず越えてみせる」
その言葉を合図にしたかのように、大聖樹の枝葉がざわめき、瘴気の中に微かな翠光が瞬いた。
それはソルシエルの意志。まだ誰にも見えぬ精霊の囁きが、確かにネルフィの心奥に響いていた。
――こうして、大聖樹の守護精霊が告げた「試練」は、ついに現実として幕を開けたのだった。
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