第53話 天空の聖地、千二百年の祈り


 熊野の深い山々を抜け、彼とシオンが次に向かったのは、弘法大師空海が開いた天空の聖地、高野山だった。ヒッチハイクで乗り継いだ車は、くねくねとした山道を、ひたすら登っていく。標高が上がるにつれて、俗世の空気が薄れ、辺りは、凛とした、神聖な気に満たされていった。

 高野山の入り口、大門の前に立った時、二人はその巨大さと威厳に、思わず息を呑んだ。

 「…ここも、空気が違う」

 シオンが、伊勢の時と同じ言葉を、しかし、全く違うトーンで呟いた。

 「伊勢が『生』の気配だとすれば、ここは、死と、そして、それを超えたものの気配がする」

 彼女の感受性の鋭さには、いつも驚かされる。まさしく、高野山は、千二百年もの間、人々の死と、そして魂の救済への祈りを受け止めてきた場所なのだ。


 二人はまず、奥之院へと向かった。一の橋から、弘法大師御廟へと続く、約二キロの参道。その両脇には、樹齢数百年の巨大な杉木立と共に、皇族から戦国大名、そして名もなき庶民まで、二十万基以上もの墓石や供養塔が、苔むしながら、静かに立ち並んでいた。

 「すごいな…」

 彼は、圧倒されていた。ここは、単なる墓地ではない。日本の歴史そのものが眠る、巨大な霊廟だ。織田信長、豊臣家、武田信玄…。教科書で見た名前が、すぐそこに、当たり前のように存在している。

 「死んだら、みんな、ここでは同じなんだな」

 シオンが、静かに言った。

 「天下人も、普通の人も、ただの石になって、この森に還っていく。生前の身分も、功績も、ここでは、何の意味もない」

 その言葉は、真理だった。この場所では、あらゆる人間の営みが、等しく、悠久の時の流れの中に吸収されていく。その絶対的な平等性の前に、彼は、自分の悩みや、創作の苦しみなど、あまりに些細なものだと感じた。


 歩を進めるうちに、二人は、御廟橋の前にたどり着いた。ここから先は、撮影禁止の、最も神聖な領域だ。弘法大師空海が、今もなお、入定(にゅうじょう)し、瞑想を続けていると信じられている場所。

 橋を渡ると、空気がさらに張り詰めるのが、肌で感じられた。

 燈籠堂の、無数の灯りが、薄暗い堂内を、幻想的に照らし出している。その奥にある御廟の前で、二人は、深く、長く、手を合わせた。

 彼は、何も祈らなかった。ただ、この場所に満ちる、千二百年の祈りの重みを、全身で受け止めていた。人々の苦しみ、悲しみ、そして、救済への切なる願い。その膨大なエネルギーが、時を超えて、今も、この場所には渦巻いている。

 ――俺の物語は、この、声なき声の、ほんの一片でも、すくい取ることができるだろうか。

 彼は、作家としての、新たな、そして、あまりに大きな問いを、突きつけられていた。


 その夜、二人は、宿坊に宿を取った。精進料理をいただき、若い僧侶の読経を聞きながら、静かな夜を過ごす。

 部屋で、彼は、シオンに言った。

 「俺の物語の運転手は、きっと、ここにも来る」

 「…そうだろうな」

 「彼は、自分が運んできた荷物に乗っていた、たくさんの人々の想いを、ここで、供養するのかもしれない。自分の旅で、救えなかった魂のために、祈るのかもしれない」

 彼の物語に、また一つ、重要な場面が加わった。それは、熊野本宮大社で見た、感謝の祈りとは違う、鎮魂と、そして、自らの無力さと向き合うための、静かで、しかし、とても厳しい場面になるだろう。

 天空の聖地で、彼の物語は、生と死、そして、それを超えた魂の領域にまで、その根を深く、深く、下ろし始めていた。

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