第16話 彫るべき言葉と、土地の記憶


 仏壇職人の男が乗った黒いワンボックスカーが視界から消えても、主人公はその場からしばらく動けなかった。「いいものを、彫れ」。その言葉が、夏の強い日差しよりも深く、彼の内側を焼き付けていた。


 ――彫る。

 それは、ただ言葉を書き連ねることとは全く違う営みだ。贅肉を削ぎ、不要な飾りを捨て、磨き上げ、最後に魂を込める。自分の文章は、これまでその逆ばかりではなかったか。不安や自己顕示欲から、意味のない言葉を重ねて厚化粧をさせていただけではないのか。

 自問が、アスファルトの熱気とともに立ち上ってくる。


 彼は再び「山形方面」と書いたダンボールを掲げた。だが、さっきまでとは心持ちが違っていた。次に進む一歩が、これまで以上に重く、意味のあるものに感じられる。


 それから一時間近くが過ぎただろうか。一台の、少し古びた深緑色のステーションワゴンが、すぐそばで土埃を軽く立てながら停車した。運転席の窓が下り、銀縁眼鏡の奥から柔和な目が彼を見つめていた。


 「もしよかったら、乗っていきますか。山形市内まで行きますよ」

 年の頃は六十代後半だろうか。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけた、学者のような雰囲気の男性だった。

 彼は深く頭を下げ、助手席のドアを開けた。車内は、古い紙とインクの匂い、そして微かにカビのような匂いがした。後部座席には、分厚い本や資料の束が山のように積まれている。


 「旅の途中かね」

 「はい。小説を書いていて、少し行き詰まりまして」

 「ほう、小説家。それは素晴らしい」

 男性は、大江と名乗った。地元の大学で民俗学を教えている教授だという。今日は、出羽三山の麓の集落で、古老からの聞き取り調査を終えた帰りだった。


 車が走り出すと、彼は先ほどの仏壇職人との出会いと、「言葉を彫る」という課題について、訥々と語り始めた。見ず知らずの相手だからこそ、素直に打ち明けられたのかもしれない。

 大江教授は、静かに相槌を打ちながら聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


 「面白い話ですね。仏壇職人が『彫る』と言う。まさしく、その通りだ。そして、それは我々が研究する民話や伝説の世界にも通じるものがあります」

 「民話、ですか」

 「ええ。例えば、土地に伝わる昔話というものは、元々は誰かが体験した、あるいは想像した、もっと長くて個人的な物語だったはずです。それが人々の口から口へと語り継がれていくうちに、個人的な感情や余分な描写が自然と削ぎ落とされていく。そして、時代や世代を超えて共感できる、物語の『核』だけが残る。これもまた、長い時間をかけた共同作業による『彫刻』と言えるでしょう」


 その言葉に、彼はハッとした。自分一人の机の上で完結させようとしていた「彫る」という作業が、もっと雄大で、時間の流れに根差したものであるように思えた。


 「形あるものは、いつか朽ちます。立派な仏壇でさえ、百年、二百年先にはどうなっているか分からない。しかし、優れた物語、彫り抜かれた言葉は、人の心から心へと宿を変えながら生き続ける。それこそが、あなたのような仕事の尊さであり、そして恐ろしさでもあるのですよ」

 教授の穏やかな声には、学問に裏打ちされた静かな熱がこもっていた。


 「もし…もし、お時間があれば、寄り道をしませんか」

 彼は、衝動的に言っていた。

 「山寺に、行ってみたいんです」

 大江教授は少し驚いたように彼を見たが、すぐに合点がいったように微笑んだ。

 「なるほど、立石寺ですか。いいでしょう。私も、あそこの空気を吸いたかったところだ」


 車は国道13号線を外れ、山寺へと続く道へと入る。蝉の声が、だんだんと強くなっていく。

 麓の駐車場で車を降りた時、大江教授は山の石段を見上げながら言った。

 「かの松尾芭蕉も、ここで『閑さや岩にしみ入る蝉の声』と詠んだ。蝉の声が満ちているのに、彼は『閑さ』を感じ取った。目に見えるもの、耳に聞こえるものの奥にある本質を捉え、たった十七音に彫り込む。これこそ、言葉の彫刻家の極致かもしれませんね」

 教授は「では、私はここで」と軽く会釈し、調査資料の整理があるからと、車に戻っていった。


 一人残された彼は、目の前にそびえる、千十五段の石段を見上げた。

 空からは、無数の蝉の声が降り注いでくる。だが、それはもう、ただの騒音ではなかった。教授の言葉をフィルターにした耳には、その声が、何百年もの時をかけて岩に染み込み、凝縮された土地の記憶そのもののように聞こえていた。


 この石段を一段登るごとに、自分の心の中にある余分な言葉が、一つずつ削ぎ落とされていくような気がした。

 彼はリュックの紐を強く握りしめ、覚悟を決めて、苔むした最初の一段に足をかけた。

 彼の旅は、風景を巡る旅から、言葉の芯を探る巡礼へと、その意味をはっきりと変えようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る