第15話 夜明けの国道と、寡黙な背中
ビジネスホテルの窓から差し込む薄明かりで、彼は目を覚ました。アラームが鳴るよりも少し早い時間。体はまだ重いが、心は不思議と軽かった。昨夜書いた文章が、旅の新しい燃料になっている。
身支度を整え、チェックアウトを済ませると、まだ人影もまばらな秋田の街に出た。空は白み始め、空気はひんやりと澄んでいる。コンビニで買ったパンをかじりながら、国道13号線が南へと延びる地点まで歩いた。次の目的地は、山形だ。
「山形方面」と書いたダンボールを掲げる。
夜明け前の国道を、ヘッドライトを灯したトラックが次々と走り抜けていく。その光の帯を眺めていると、自分が巨大な血流の中に立つ、ちっぽけな細胞のように思えた。
三十分ほど経っただろうか。一台の黒いワンボックスカーが、彼の横で静かに停車した。窓が下り、運転席から現れたのは、日に焼け、深く皺の刻まれた五十代くらいの男だった。口元は真一文字に結ばれ、目は鋭く前を見据えている。
「どこまでだ」
声は低く、無駄な響きが一切なかった。
「山形市内まで行きたいです」
「…新庄までなら乗せてやる。そこから先は自分で探せ」
「ありがとうございます」
彼は礼を言って、助手席に乗り込んだ。
ドアを閉めると、車内には木の匂いと、油のような、金属のような、独特の匂いが混じっていた。後部座席は取り払われ、工具や木材、そして布にくるまれた細長い何かが、整然と並べられている。
車は音もなく発進した。男は一言も話さない。ラジオもついておらず、車内にはエンジン音と、時折工具が小さく揺れる音だけが響いていた。気まずい沈黙だったが、男の纏う空気が、それを許さないような緊張感を放っている。
彼はただ、窓の外を流れる景色を目で追った。
雄物川の広い河川敷を越え、車は山間部へと入っていく。朝靄が立ち込める田園風景、杉木立が続く深い森。景色は美しいが、男の沈黙が、その美しさにさえ重みを与えているようだった。
一時間ほど走った頃だろうか。彼が意を決して口を開いた。
「あの…お仕事、何か作ってらっしゃるんですか?」
男はしばらく前方を見たままだったが、やがて短く答えた。
「…仏壇だ」
その一言に、彼は息を呑んだ。車内に漂う匂いの正体が、漆と金箔、そして木材の香りなのだと理解する。後部座席で布にくるまれているのは、これから納品される仏壇の部品なのだろう。
「川連(かわつら)の、仏壇職人です」
秋田県南部に位置する、伝統工芸の街。彼はその名を、どこかで聞いたことがあった。
「小説家、か」
彼が自分の身の上を話すと、男は初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めたように見えた。
「言葉を、彫るのか」
「彫る、ですか?」
「俺たちは木を彫り、漆を塗り、金を貼る。何十年、百年先まで残るものをな。あんたの仕事も、似たようなもんだろ。いらねぇ言葉を削ぎ落として、残すべき芯だけを残す。そういう仕事じゃねぇのか」
その言葉は、彼の胸に深く突き刺さった。
これまで「拾う」「書く」「紡ぐ」と考えてきた自分の行為が、男の言葉によって「彫る」という、より厳しく、より研ぎ澄まされたイメージに変わっていく。
――そうだ、俺は言葉を彫りたかったんだ。
男はそれ以上、何も言わなかった。
だが、その寡黙な背中が、雄弁に語りかけてくるようだった。日々の鍛錬、素材との対話、そして、祈りを捧げる人々のために一つのものを作り上げるという、静かで揺るぎない誇り。
それは、机の上だけで言葉をこねていた自分には、到底持ち得なかったものだった。
やがて、山形県との県境が近づき、新庄市の看板が見えてきた。
男は国道沿いの広い駐車場に車を停めた。
「ここでいいな」
「ありがとうございました。とても、大事な話が聞けました」
彼は深く、深く頭を下げた。
男はただ、小さく頷いた。そして、車を発進させる直前、もう一度だけ口を開いた。
「…いいものを、彫れ」
黒いワンボックスカーが去っていく。
残された彼は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
朝日はすっかり高くなり、空はどこまでも青い。その青さに、仏壇の内側に広がる金色の宇宙が、ふと重なって見えた。
手の中にあるのは、まだ荒削りな言葉の塊だ。それをどう彫り上げていくのか。
旅は、彼にまた一つ、重く、しかし確かな問いを投げかけていた。
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