第10話 函館の夜と、渡る前の海

第10話 函館の夜と、渡る前の海


 五稜郭公園の堀を眺めながら、彼はしばらく歩いた。

 星形の城郭は、歴史の匂いを静かに漂わせている。観光客の楽しげな声が遠くに聞こえ、彼の孤独を際立たせたが、それはもう心地の良い孤独だった。


 日が傾き始め、街は夕暮れの色に染まっていく。

 彼は市電に乗り、函館駅へと向かった。目指すは、函館山からの夜景だ。

 ――景色を、目で見るんだ。

 初日に会った男の言葉が、旅の指針になっている。


 ロープウェイに乗り、山頂へ。

 空が藍色から深い黒へと変わるにつれて、眼下の街に光の粒が灯り始める。

 扇状に広がる市街地と、その両側を縁取る津軽海峡と函館湾。無数の光が、まるで宝石を散りばめたようにきらめいていた。


 その光のひとつひとつに、人々の生活がある。

 今日乗せてくれた家族も、あの光のどこかで夕食を囲んでいるのだろうか。

 彼は手すりに寄りかかり、ただ黙ってその光の海を見つめた。

 言葉は、まだいらない。この景色を、そのまま自分の中に吸い込むだけでよかった。


 山を下り、彼は港の方へ歩いた。

 潮風が、昼間とは違う冷たさを帯びて頬を撫でる。赤レンガ倉庫群がライトアップされ、水面にその姿を揺らしていた。


 岸壁に腰を下ろし、リュックからノートパソコンを取り出す。

 キーボードを打つ音だけが、静かな夜の港に響く。


 ――森町の漁師が語った、冬の海。

 ――ミニバンの父親が話した、昆布が干される浜辺。

 ――そして、今しがた見たばかりの、百万ドルの夜景。


 言葉が、溢れ出してくる。

 指は止まらず、頭の中に溜め込んだ景色が次々と文字に変わっていく。

 それは机の上でひねり出した文章ではなく、足で稼ぎ、心で感じた言葉だった。


 深夜、彼は執筆を終え、フェリーターミナルの方角を眺めた。

 海の向こうは本州だ。暗くて何も見えないが、その先にも道が続いている。

 北海道での旅は、もうすぐ終わる。

 しかし、それは終わりではなく、次への始まりに過ぎない。


 彼は、ターミナルの待合室で仮眠を取ることに決めた。

 硬いベンチに横になり、目を閉じる。

 遠くで響く船の汽笛が、まるで新しい物語の始まりを告げる合図のように聞こえた。

 北の大地で得たものを胸に、彼の旅は、いよいよ海を渡る。


 

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