第9話 家族のいる風景



 森町の空は高く、夏の日差しがアスファルトの匂いを立ち上らせていた。

 軽トラックが去ったあと、彼は再び一人になった。さっきの漁師が言っていた「言葉じゃ説明できない景色」という一節が、頭の奥で静かに反響している。


 ――そうだ、俺はそれを見つけに来たんだ。


 ダンボールを掲げ、函館方面へと向かう車線に視線を向ける。

 駒ヶ岳が遠くに見え、その麓を縫うように道が伸びている。


 数台の乗用車が通り過ぎた後、一台のシルバーのミニバンが速度を落とし、路肩にゆっくりと停車した。

 スライドドアが開き、中から快活そうな女性の声が聞こえた。

 「どこまで行くの、お兄さん?」

 運転席には人の良さそうな父親が、後部座席には小学生くらいの男の子が座っている。


 「函館まで行きたいです」

 「ちょうどよかった。うちらも函館のじいちゃん家に行く途中なの。乗りなよ」

 彼は礼を言って乗り込んだ。車内にはエアコンの涼しい風と、ほんのり甘いお菓子の匂いが満ちている。


 「ヒッチハイクなんてすごいね! 冒険みたい!」

 後部座席の男の子が、目を輝かせながら言った。母親が「こら、静かに」と優しくたしなめる。

 父親はハンドルを握りながら、バックミラー越しに彼を見た。


 「北海道は広いから大変だろう。どこから来たんだい?」

 「旭川からです。そこから少しずつ」

 「へえ。何か目的があって?」


 これまでと同じ質問に、彼は少しだけ言い方を変えて答えた。

 「物語の種を探しています。小説を書いているので」

 その答えに、一番反応したのは母親だった。

 「作家さんなの? うちの子、本が大好きで」


 男の子が身を乗り出し、「どんなお話を書くの?」と尋ねる。

 「まだ、これから書くんだ。この旅で見たものや、聞いた話を書こうと思ってる」

 「じゃあ、僕たちのことも書く?」

 その無邪気な問いに、彼は思わず微笑んだ。

 「書くかもしれないな。君が大きくなった頃、本屋さんに並んでるかも」


 車は国道5号線を南下し、左手には穏やかな内浦湾が広がっていく。

 車窓の外の景色は、これまで見てきた荒々しい自然とは違い、どこか優しく、人の生活の気配に満ちていた。


 父親が、海沿いの小さな町を指差して言った。

 「あのあたりは昆布が有名でね。夏になると、浜辺じゅうに黒い昆布が干されるんだ。磯の匂いが町中に広がる」

 それは、漁師の男が語った厳しい海の姿とは違う、穏やかで豊かな海の情景だった。


 これまでの旅で出会ったのは、仕事に生きる男たちの、孤独で、しかし誇りに満ちた背中だった。

 だが今、このミニバンの中にあるのは、家族の笑い声と、日常の断片から生まれる温かい物語だ。

 ――こういう景色も、あったんだ。


 机の上で固まっていた自分が見失っていたのは、非日常の刺激だけではなかった。

 ありふれた日常の中にこそ、人の心を動かす物語が眠っている。


 函館市街地が近づき、交通量が増えてきた。

 「この先の五稜郭公園の近くで降ろすよ。そこなら街の中心部にも近いから」

 車が公園の入り口近くで停まる。


 「ありがとう、頑張ってね、作家さん!」

 男の子が窓から大きく手を振る。彼は深く頭を下げ、ミニバンが見えなくなるまで見送った。


 一人になると、車の喧騒が急に大きくなったように感じた。

 目の前には、緑豊かな五稜郭公園が広がっている。

 リュックの重みが、これまで出会った人々の言葉の重みのように感じられた。


 彼は空を見上げた。

 空の青さは、旭川とも、小樽とも、そしてさっきまでの海沿いとも違う、街の空の色をしていた。

 次のページは、もう始まっている。

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