第2話 古いワゴン車の匂い



 助手席に腰を下ろした瞬間、シートから微かにタバコと古い革の匂いが立ちのぼった。窓から流れ込む風は、国道沿いの湿った土の匂いと混ざって、どこか懐かしい。


 初老の男は、運転席に体を預けたまま、じっと彼の顔を見た。

 「……若いね。いくつだ?」

 「二十です」

 「大学生か?」

 「いえ……作家です」


 男は目を細め、アクセルを踏む足を緩めた。

 「作家? それはまた……。売れてるのか?」

 「そこそこです。けど、もう駄目かもしれません」


 走り出してすぐ、こんな言葉を口にするとは自分でも思っていなかった。

 それでも、言葉は水が溢れるように口から零れていく。


 「文章が出てこないんです。机に向かっても、手が動かない。頭の中で何かが固まってしまって……。だから、動こうと思いました」

 「動く、って……旅をするってことか」

 「はい。北海道から鹿児島まで、ヒッチハイクで」


 男は片方の口角を上げ、煙草を一本くわえた。火をつける仕草が、妙に板についている。

 「そりゃあ、大きく出たもんだな。理由は、刺激か?」

 「そうです。書けないとき、机の上を片付けたり、好きな映画を見返したり、いろいろ試しました。でも、結局……同じ景色を見てるだけじゃ駄目なんだって気づきました」


 男は窓を少し開け、煙を外へ逃がした。

 「俺も若い頃は旅ばっかしてたよ。バイクで本州縦断、沖縄行きの船に乗ったこともある。理由なんて、退屈だったからだ」

 「退屈……」

 「そう。人間、同じ場所に長くいると、景色も、人も、自分自身も、古くなっていく。腐る、って言ってもいい」


 彼はその言葉に妙な説得力を感じた。

 「じゃあ……旅をすれば、新しくなれますか?」

 男は笑った。「さあな。新しくなるか、別の腐り方をするか。それはお前次第だ」


 会話が途切れ、ワゴン車のエンジン音だけが車内に満ちる。

 道路の向こう、遠くの山が夏の靄に包まれている。



 「で、なんで鹿児島なんだ?」と男が再び口を開いた。

 「端から端まで行ってみたかったんです。北から南へ。途中で出会う景色や人を、全部、自分の中に置いていきたい」

 「それを書きたいのか?」

 「書くかもしれないし、書かないかもしれません。……ただ、書くためじゃなく、まず生きるためにやってみたくて」


 男は片手でハンドルを回し、緩やかなカーブを抜ける。

 「偉そうなことを言うようだがな、俺はそういうの、悪くないと思う。目的を決めすぎると、そこへ行くまでの道が狭くなる。広いまま走った方が、面白いもんが見える」


 「面白いもん……」

 「そうだ。たとえば、道端で拾った石ころでも、港で聞いた漁師の愚痴でも、そういうのが意外と後になって効いてくる。人生も文章も同じだ」


 彼は頷きながら、ふと、自分の原稿用紙に浮かばなくなった言葉たちを思い出した。

 ――たしかに、机にかじりついていたあの日々には、石ころ一つ拾うこともなかった。


 「お前さ」

 男がふいに低い声を出す。

 「この先、きっと嫌なこともあるぞ。乗せてもらえなかったり、変な奴に絡まれたり。そういうとき、どうするつもりだ?」

 「……なるべく笑ってやり過ごします。で、もし危なかったら全力で逃げます」

 「お、いいな。旅は逃げることも大事だ。立ち向かうだけじゃ長続きしない」


 「あなたは……そういうこと、ありましたか?」

 男は煙草をもみ消し、短く笑った。

 「あったとも。名古屋でヤクザみたいな奴に絡まれてな、財布を出せって言われた。でも、財布には千円札一枚しかなかったんだ。『これじゃ足りねぇだろ』って言ったら、そいつ、笑って去ってったよ」


 二人は同時に笑った。

 その笑いは、まだ互いをよく知らないはずなのに、不思議と軽やかだった。



 「なあ、作家さん」

 「はい」

 「この先、何か面白いことがあったら、俺も出してくれよ。お前の本に」

 「……名前は?」

 「名前はいい。さっき言ったろ、流すための旅だ。俺は“通りすがりのオヤジ”でいい」


 彼は窓の外を見た。国道沿いの景色が、少しずつ、少しずつ変わっていく。

 ワゴン車はまだ北の大地の中を走っているが、その車内には、もう別の季節の匂いが混じり始めている気がした。

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