羽とソウゾウ、上
教室へと誘う母親の手から必死に逃れようとしていたアヅキは、遠くから見ても心を削られる姿をしていた。
こいつも毎朝戦っているんだと思った。踏み出す力がどうしても足りなくて。震える足が不甲斐なくて。
驚いたのは、それに少しでも共感した自分自身だ。
保健室登校になってから五日目。
ダイナの虚勢は失速することを知らず、毎朝アヅキを引っ張っては教室へ辿り着く前に過呼吸を起こす。
「無茶だってば、ソレ」
「うるせえ……」
ベッドに寝かされたダイナはようやく落ち着いたようで、枯れかけの声を振り絞って言った。
「結果はわかってるんだかだもう普通にこっちくればいいのに。気長にいこうね」
「……お前何してんの?」
隣のベッドに腰掛けたアヅキは、ダイナを慰めると見せかけて来室記録になにか書き込んでいた。
「ダイナが昇降口から何歩で苦しみ出したかデータにとってる」
「てめ~!」
ダイナが元気であったらアヅキの首は締まっていただろう。
「ホラ、でも昨日より伸びてるよ! あとチョット!」
「なんかすげえ腹立つな、そのらくがきが……」
意味深な数字の横に正体不明の顔のある三日月が並べて描かれていて、朝の焦燥を逆撫でする。あとで覚えとけよ、と釘を刺しておいて、ダイナはもぞもぞと身を起こした。
「よく学校嫌いにならないねえ。わたしなら心折れてるよお」
呑気に言っているが、アヅキも似たような立場にあるのだ。ダイナはこいつのことも早く教室に復帰させてやると約束したのに、未だその努力は実っていない。
「おはよう諸君。今日はおとなしくしているかな?」
そうこうしているうちにツキトジ先生が朝会から戻ってくる。
「センセ~、ダイナがまた倒れましたあ」
「知ってた~。よく心折れないねえ」
「似たようなことを……」
なぜダイナだけが危機感に苛まれているのだろうか。
ツキトジ先生はアヅキのバインダーを覗き込むと、しばらく眺めてから何か書き足した。
「ま、鳥は一日に飛べる距離が決まってるから。雛が一気に飛べるわけがないんだよねえ」
「でも……」
バインダーがこんと縦に降ってきて、その先にツキトジ先生の笑顔があった。「気長にいこうね」
甘い。
「あれぇ? 何その顔」
先生を見上げるダイナは如何とも言い難い険しい顔をしていたのだった。
保健室には毎日いろんな生徒が訪れる。
「アノ~」
消え入りそうな声と共に入ってきた下級生。
お腹を押さえているのを見て、アヅキがすっと立ち上がった。
「おいで。座って座って」
保健室に慣れていない様子で、落ち着かない。自分の隣の椅子に座らせる。
「どうかした?」
「えっと……、」
「ダイナ、睨まないの」
「は!? 睨んでない」
ホラ記録とってね、と来室記録を押し付けられる。「なんなんだよ」
「おなかいたくて……」
「ふむふむ、トイレはいった? 道に生えてるきのこでも食べた? だめだよ~、シロウトがきのこ取ったら」
「ちがう……」
一つずつ質問をしていくも、戸惑いながら首を振る下級生の腹痛を解決することはできなかった。アヅキは両手を上げた。
「う~ん、お手上げ! センセ~」
「はいはい」
「いたんならこれに任せる前に自分でやってくださいよ!」
また、二時間後。
「しつれいします」
遠慮がちに保健室の戸をノックした生徒。今度はダイナたちより少し身長が高く、大人びた顔立ちをしていた。
「は~いどうぞ~。座ってね~」
「今すぐ片付けろ馬鹿!」
「ちょっと待って今動かしたらわかんなくなっちゃう」
入室とともに待ち受けていたのは養護の先生の返事と、床に散らばったたくさんのスイレンの花。
生徒はぱちくりとして入口の前で立ち尽くした。
「え? ここ保健室だよね?」
「すみません、気にせず」
スラックスを履いた上級生は町外れの川辺のように広がったスイレンの花畑を避け、ひょいとテーブルまでたどり着く。
「お名前は?」
「五年生十七番、ダヴです。手首をちょっとひねっちゃって」
「赤くなってるね。冷やそうか。アヅキ君、氷のうとテープ持ってきて」
「かしこまりました~」
妙に高らかな声でアヅキは小走りに冷蔵庫へ向かう。それを見送って、ダイナが眉をひそめた。
「え、まさかアヅキにやらせる気ですか」
「だって先生片手だし」
ツキトジ先生は自分の左腕をつんつんと指差した。そう。ダイナが保健室に初めて来た時から先生は利き腕にギプスをつけていた。
「それ、どうかされたんですか?」
「骨がバッキリいっちゃって」
「ありゃりゃ」とおざなりに相槌を打ったのはアヅキ。ちからこぶを作って叩いてみせた。「ダイジョブ、任せて! 割とよくやってるから」
本当かよ。
ツキトジ先生と目配せしても、力強く頷く真面目そうな表情にも、ダイナはいまいち安心できなかった。しかし最高学年の先輩は特に嫌がる様子もなく「おねがいします」と患部を差し出した。
アヅキが散らかしたスイレンを片付けつつ見守っていると、先生の口頭指導が挟むにしてもその手際にはある程度慣れがあった。
「おわったよ」
「ありがとう、アヅキちゃん」
優しく固定された自分の手首を撫でて、先輩は感謝の笑みを浮かべる。
「飛翔準備訓練ですか」
「あ、うっかりつけたまま来ちゃった。そうそう」
ダイナが問いかけたのは、運動着を着たダヴ先輩の背中に白い
「なぁに、それ」
「訓練用の仮の羽だよ。ほとんどただの飾りだけど」
飛翔準備訓練。
デルタコロニーの生徒は卒業とともに故郷を飛び立つ。戴いたばかりの本物の自分の羽を羽ばたかせて。そんな壮大な旅立ちに向けて、一年生の頃からイメージトレーニングを重ねていくのである。
「そんなのあったっけね」
とぼけるようにいうアヅキに、ダイナは驚きを隠せず顔を上げた。
「受けたことないのか、お前」
「始まる前にユウレイになったもので」
「早く生き返れ。っていうかお前も片付けろよ!」
「ああ、動かさないでって言ったのに」
アッシュグレーの床でわちゃわちゃと言い争う二年生たちを横目に、ツキトジ先生はこっそり処置の手直しをしながら言った。
「卒業に向けて五年生が一番長く訓練の時間を取られてるからね」
「そうなんです。次の春には自分の羽が戴けるから、すごく楽しみ」
穏やかだったダヴ先輩の声が期待に跳ねる。
「自分の羽……」
仮の羽にすら羨望の眼差しを向け、ダイナが小さく囁いた。それが耳に届いたのか、ダヴ先輩は後輩ににっこりと微笑みかけた。
「あなたたち、二年生かな。不安?」
「いえ! 待ち遠しいです」
早くここを出て、いろんなところを見てみたい。
「頑張ろうね」
「はい」
先輩がぐっとこぶしを作ってくれて、ダイナも強く頷いた。この先輩に続いて、いつか自分もこの学校から飛び立つのか。
早くここから出なければ。この真綿の中から。
「志が高ぁいねえ」
「こいつ……」
しかしアヅキには響かなかったようだ。ダヴ先輩が授業へ戻った後で、乾いた拍手を寄越してくる。
「お前、羽を戴いたらどんなのだろうとか卒業したらどこに行こうとか考えないのか?」
「ないことはないけど。別にそれで胸は踊らないかな」
熱のこもらない声でアヅキはまた、スイレンのドライフラワー作りを再開していた。
「花を干すことより胸踊らんか」
「たぶんそれでワクワクしてたら元気に保健室登校してないよ」
ツキトジ先生はいつもの乾いた笑いで意地悪を言った。しかしアヅキの方もそれに対し大真面目な顔で頷いて。
「そうだよ。わたしは臆病者」
臆病者は、スイレンを夢中で吟味している。
「…………」
「でもダイナが教室に戻れるまではちゃんと見守っててあげるから」
ダヴ先輩の真似なのかグッと握りこぶしを作る。
もしかしてのれんに腕押し、なのか? ダイナは頭を抱えそうになって、代わりにアヅキの首を絞めておく。
「お前もだよ。お前も行くんだよ!」
「うえ~」
◯
また、翌日。
「アヅキ。飛翔準備訓練に行くぞ」
「え? やぶからぼうに」
昼食後、少し目を離したすきにアヅキはまた棚の中に潜り込んでいて、クリオネのようなアイテムを手に持って、長く長いメリヤス編みの轍をぐるぐると巻きつけている。
「何してんだそれは! 出ろ出ろ!」
「ちょ、リリアン途中だから……」
引き摺り出して身体中の組紐を解いてやる。それからアヅキに運動着を押し付けた。
「今ならどのクラスも体育館使ってないから俺たちが借りられる。本当にやったことないのか?」
「な、ない、けど」
アヅキは運動着をギュッと抱きしめ、片足が逃げる。ひきつった顔は見覚えがあった。しかしダイナは構わず詰め寄る。
「じゃあ行くぞ。少しでもやっておいた方がいい」
「ええ~……」アヅキの目がきょろっと泳いでいく。「ホラ、今日は勉強をしようかな。宿題サボりまくってるから」
「待て」
普段やらないくせに急にやる気を出して、自分のリュックに走って行こうとするので、ダイナは咄嗟に足が出た。
「へぶっ」
「あ、ごめ……」
床にダイブしたアヅキが鼻を押さえながら起き上がる。
「ごめん」
「痛くなくなったらもう一回言って」
目尻に水滴を浮かべていてさすがにかわいそうであった。しかしそれはそれ。
「ていうかなんで急に訓練なの」
決まってるだろ、と、ダイナは叫んだ。
「いつまでもここで座ってるだけじゃ身体がなまる! 平和ボケは毒だ」
「すごいストイック」
「こんなに元気はつらつな保健室登校さん、先生も会ったことないよ」
「ほら立て」
「いやあ、待って! 勝手に体育館使ったらダメじゃない?」
「先生?」
「いーんじゃない」
振り返って伺いを立てると、雑誌に顔を埋めている養護教諭が間延びする声で許可を出した。その許可に確実性があるかどうかは怪しいけれども。
「じゃ、着替えろ」
「わ~ん……」
アヅキはこれ以上抵抗せずすごすごとカーテンの向こうへ引っ込んだ。
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