保健室のユウレイ、下



 翌朝。いつも通りアヅキは正門の裏から登校する。

 校舎裏には置きっぱなしになった空のロッカーがあるので、こっそりそれを開けて靴を履き替える。これで、昇降口にすら行かずに済んでいるのである。

 しかし人目を忍んで保健室に向かおうとする背中を、大きな挨拶がとらえた。

「おはよう」

 元気すぎる挨拶の主はダイナだった。

「どこいく気だよ。教室行くぞ!」

る挨拶の主は姿を見るまでもなくダイナだった。ダイナは追い抜きざまにアヅキの腕をガシッと掴んで、足早に昇降口へ歩いていく。

「ムッ、」

 ぶわっと冷や汗が吹き出した。

「むり! ムリムリムリムリ!」

「無理じゃねえよ、やってみないとわかんないだろ」

「ヤダヤダ! 離してー!」

 担ぐみたいに持っていかれる身体を突っ張って、足でブレーキをかけようとする。ダイナはアヅキの抵抗などものともしない。変わらず、すごい力で教室に連れて行こうとしている。

「お前こんなところから入ってんのかよ。生徒は正門から入らなきゃ駄目だろ」

「だっ、ダイナこそ、もう教室行けんの?」

「行ってみせる」

 まるで勇者が決意するようにダイナは言った。

 ずるずると靴を削りながら、一瞬、その横顔に喉がつまった。

「イヤーッ、大人のひと~!」

 絶対に行きたくない。

 ……でも、このまま連れて行かれちゃったらどうしよう。クラスのみんなはどう思うのだろう。迎えてくれるのだろうか。それとも放っておいてくれるだろうか。

 ドクドクうるさい心臓を押さえた。よろけながらアヅキの意思とは関係なしに二年生の教室へと近付いていってしまう。

 やっぱり保健室に戻る時の言い訳はどうしよう。

 いつもの時間にアヅキが来なかったら、ツキトジ先生はどう思うのだろう。

 しかしそんな心配は無用であった。

 昇降口を過ぎたあたりでダイナも限界が来たのだった。



 それから数日間、ダイナは毎朝、隠れようとするアヅキを引っ張って必ず教室へ向かおうとした。そのたび途中で力尽きて、保健室に戻されていた。

 どこにそんな気力が、と頭をかかえるツキトジ先生の方が気力を削がれているようだった。一方でどう隠れてもダイナにつかまって振り回されるアヅキも、朝は心が休まらない日々である。

 ダイナが運ばれたカーテンの向こうからは、いつも悔しそうに枕を叩く音が聞こえてきた。

「なんでそんなにがんばるの?」

 一度失敗するとその日はとりあえず諦めるらしく、ダイナは穴を埋めるように、気を紛らわせるように自習に励んでいた。

 やぶからぼうに話しかけられ、集中していたダイナは少し煩わしそうにこちらに顔を上げた。「なんだよ」

「いやあ。どうせ倒れちゃうのに、毎日教室に行こうとするなんてスゴイなって」

 向き合って座る相手がいることに未だ慣れないアヅキは机の上で両手をパタパタさせた。

「通学路の時点でつらいんじゃないの。そんなムリしなくてもいいのに」

「お前に言われたくない」いー、と歯を見せてダイナは反発した。「当然だろ、病気じゃないのにいつまでもこんなとこにいたらカビが生える」

 じめじめした草むらに小さなカタツムリが潜んでいるのを想像して、

「気持ちとは裏腹に身体はシャットダウンするんだよ。それって、病気に近いんじゃないの。毎日ぜえぜえして倒れてるじゃん。ちょっとくらい……」

「それは”逃げ”だろ。逃げたら負けだ」

 アヅキが最後まで言うのを待たずに彼女は言った。

「でもお母さんも休んでいいって言ってるんでしょ。センセ~たちも心配してる。そんな状態で、それでも頑張ってるならじゅうぶんあっぱれだと思うけど」

 焦れば焦るほど首は締まっていく。先生も言ってる、無茶は禁物。ノンビリでいいのだ。

 けれど、ダイナはそんな言葉に惑わされなかった。それどころか目をつり上げて、アヅキの襟を掴み上げた。

「ワッ」

「言い訳だ。聞いてられねえ! それは自分のための言い訳だろ、俺に押し付けるな!」

「そうやって言うんならほっといてよ、」アヅキはすごく久しぶりに声を張り上げた。「言い訳でけっこう。だって行きたくないんだもん!」

「こいつッ、開き直りやがって!」

 ぽこん。ぽこん。

「こ~ら」

 バインダーで順に叩かれ、水をかけられたろうそくのように静かになる。

「元気でよろしい。まだやる?」

 いつの間にか二人のあいだに立っていたツキトジ先生が、にっこりと笑った。


     ◯


「あれ、もう出るの? ずいぶん早いけど」

 リュックを背負うアヅキを呼び止めて、ママが言った。

「今日ちょっと元気そうだね」

「そう?」

「うん、登校前にしては顔色がいいわ。」

 母は嬉しいことがあると花が咲いたように笑う。いつも時間ギリギリに出発するので、今朝はやる気があるように見えたのかも。保健室のルームメイトとどなりあって気まずいから先に到着しておきたい――なんて言えない。

 ママは上機嫌で、玄関までついてきた。

「今日は送ってあげる」

「え」


 ダイナは、今日こそ教室にたどり着くぞと決意を固めて、チャイムが鳴るよりもっと早くの時間を狙って家を出た。

 ここ五日間は全て敗北。正直に言ってしまうとここまで来るのだって一苦労だ。歩を進めるたびに胸が鉛のように重くなってくる。自分の手首をグッと握りしめ、まだ誰もいない通学路を一人歩く。

 あいつ……アヅキは来ているだろうか。教室に連れて行こうとするダイナから逃げるようにどんどんと登校する時間が早まっている。

 本当は、あいつは教室に戻れるんじゃないかと、ダイナは思っていた。

 精いっぱいということは、意思はあるのではないかと。

 だってあんなに元気だ。ともすれば、ダイナの大声に言い返せない他の子よりも。気だるげでものぐさなことを除けば堂々としていて、口達者で、落ち着いていた。

 それならもったいない。あんな校舎の隅っこで、逃げ隠れて過ごすなんて。

 ダイナたちと一緒に卒業するべきだ。

 次に見つけたら今度こそ引っ張っていって、教室の扉を開けるのだ。

「い……行かない……っ」

 拳を握りしめるダイナの耳に届いたのは、か細くて、悲痛な声だった。


 ママがなにを言いたくてここまで送ってくれたのか、アヅキには確信があった。

「ここから一人で行けるよ」

「教室、行けそう?」

「…………」

 返事ができない。アヅキの母が待っている答えはたった一つ。

 行けるよ。教室でみんなと勉強してくるよ。

 言えない、ウソでも言えない。

「い……お、おなかいたいかも……」

「行けないくらい痛いの?」

「あ……」

 あああ。あああ。

 足の力が入らない。

 そっとアヅキの手首を握って、母の心配げな眼差しが覗き込んでくる。

「……アヅキ、行ってみよう?」

 軽く引かれただけでアヅキの身体は逆方向へと逃げてしまう。

「い……行かない……っ」

 どう言い訳したって行けないものは行けないのだ。ダイナだって、アヅキだって。ダイナには辛いことがあって倒れるくらい大変なのだから、ただ行きたくないアヅキと比べてはいけないのだけれど。

 それでもアヅキにとって、教室への道は大きな大きな鏡の壁だった。

「アヅキ。挑戦してみようよ。大丈夫よ? 誰もあなたのこと悪くなんて言わないから」

 わかんないじゃない、と思いながら、けれどそんなことは重要じゃない。そんな先のことまで考えられない。今、自分のつま先の地面に引かれたチョークの線を跨ぐのが怖いのだ。

 足がすくんで動けない。

 アヅキは教室に行くのが怖い。

 それをはっきり伝えるのも怖かった。

 こんなわたしが卒業できたって、情けない背中に羽が生えるわけがない。

「アヅキ!」

 震えていたアヅキの手を力強く掴む手があった。

 母との間に割って入ったのは昨日言い合いをしたばかりの同級生だった。

「……ダイナ? 朝早いね……」

「お前のこと、怠け者って言ったよな。訂正する」

 ダイナはいつもの大きな挨拶を省略して、真っ直ぐにアヅキの目を見つめた。

 瞳が朝日の光をそのまま反射して、思わず瞬きをするほど眩しかった。


「臆病者だ、お前は!」


「ええ……?」

「ださいな。情けない! 教室なんてただの部屋だ、怖がるほどの大したもんじゃないぞ。おい、突っ立ったまんまで星が回ると思うなよ!」

「ちょ、なに!?」

 アヅキの鼻先に人差し指を突きつけてまくし立てる。乱暴な言葉の渦に溺れそうになりながら、アヅキは激流のようなダイナの勢いに噛みついた。

「……ちょっと言い過ぎじゃない!? 自分のこと棚に上げて! ダイナだって倒れちゃうくらい怖いくせに!」

 どうして今まで教室に行くのが当たり前だった人が、こっち側に来てしまうの。休むのに真っ当な理由があって、戻る意欲もある、キミは強い人。

 アヅキにはそれが眩しい。息苦しいの。

「……そうだよ。怖い」

 押し返した壁はいつの間にか布のように柔くて。アヅキを見るダイナの目は相変わらず強いけれど、今までと少し違う気がした。

「だ、……ダイナ?」

「だから俺とお前はおんなじだよな。同じところに立ってる」

 ふわり、ダイナの長い髪がなびいて、アヅキの母に向き直った。

「お母様、すみません」

 ダイナは同級生の母親に対峙して、はっきりと言った。

「今日はこいつ、保健室に行かせます。顔色が悪いので。」

「え……」

「勝手にすみません。代わりに約束します、一年後には——」

 ビシッと人差し指を立てる。そしてその指先を、ダイナ自身が見据えながら続けた。

「一年後の戴翼式までには、こいつが教室で、普通に授業を受けられてる——そうなれるように、します。約束します」

 アヅキは目を瞬かせた。

 真っ直ぐに宣言したダイナの姿も、突然勝手にされた約束も、全部視界がチカチカとして、なにも声が出てこなかった。

「行くぞ、アヅキ」

「はぇ……」

 ぱちくりとしているのはママも同様で、ぱたぱたと自分の子を連れ去っていく生徒を、慌てて呼び止めた。

「……待って、あなたは?」

「俺はダイナです。同学年の」

 母はポカンとして、あっという間に走っていく子どもたちを見送った。

「——アヅキさんのお母さん」

 彼女の隣にそっと立ったのはツキトジ先生だった。

「先生……いえ、学校でのことは先生にお任せしてますし。ごめんなさい、きっかけになればと思ったのですけど」

 つい余計なことをしてしまう、と反省する母親に、先生はいやいやと肩をすくめた。

「ま、子どもって、ちょっとしたことで突然コロッと成長したりしますからね。めんこみたいに」

「えっと……めんこってなんですか?」

「え?」

 

 雛は、いつか飛び立つものです。


「保健室いくって言った! 今日保健室いくって!」

 ずんずんと昇降口を通過していくダイナに引きずられ、アヅキはまた悲鳴をあげていた。

「騙した! ウソつき! 行きたくない~!」

「甘えるな、今日こそ行けるかもしれないだろ!」

「ヤダーッ! たすけてツキトジせんせ~!」

 これが日常になるのに、あと何日かかるだろうか。


 未だ羽をいただかない幼い子どもにもいつかその日はくる。

 いつか、ね。

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