第2話 雨の邂逅

 雲は低く垂れこめ、夏の湿気を孕んで重く揺れていた。長安の人々は誰もが夕立を待つ顔をしていたが、崇光の心だけは別の予感で満ちていた。──また、会えるのかもしれない。


 傘を持たぬまま石畳を踏みしめ、群衆の間を探る。まさかと思いながらも、瞳は勝手に動いていた。藍の瞳を、雨に濡れる姿を、胸の奥で探してしまう。


 香炉の煙の向こう、絹の裾を揺らす女がいた。淡い光を帯び、ものの輪郭を柔らかくして立つその姿を見た瞬間、喉の奥の名がほどけた。


 「……華衣(かい)」


 呼んだ途端、空は応じるように震えた。一滴、二滴。雫は石畳を打ち、やがて世界を祝うかのように一斉に降りそそぐ。崇光は軒下へ駆け込み、半ば濡れた袖を絞る。そこには、もう彼女が立っていた。


 「本当に、降ってくれましたね」

 息がこぼれる。昨日の夢ではない。あの約束は、ここで現に息をしていた。


 華衣は瞳をわずかに揺らし、静かに笑む。

 「約束を、覚えていたのですね」

 「覚えていた、というより……空が気を利かせたのだと思います」

 「空が?」

 「まるで、人の願いを測っているように」


 とぼけたようで角のない言いぶりに、華衣は口元を押さえた。鈴のような笑いが雨音の隙間へこぼれる。


 「……笑ってくれた」

 眩しげに見つめる崇光に、華衣は視線を逸らした。

 「笑われるほど、可笑しなことを言いましたかしら」

 「いいえ。想像していたよりずっと綺麗で、言葉が遅れてしまっただけです」


 華衣は小さく首を傾け、傘をわずかにずらした。崇光の肩に冷たい雫が落ちる。ふたりの袖が触れるか触れないか、そのわずかな温度差が却って近さを際立たせる。


 「雨の日の都は、いつもこう?」

 行き交う人々は店先で足を止め、童は水たまりを跳ねて遊んでいる。


 崇光は少し考え、「いつもは、もう少し賑やかですよ」と応じた。

 「雨でも市は開きますし、食べ物の匂いも流れてきます。……ただ、焼き栗は濡れると台無しで」

 「台無し?」

 「皮が水を吸うと、中身まで頼りなくなる。あ、いえ、想像しなくて大丈夫です」

 その真面目な調子に、華衣はまた笑みを漏らした。

 「あなたという方は、どうしてそんな」

 「人が笑って楽になるのなら、栗も報われますから」


 ほどなく、通りに屋台の呼び声が響いた。雨に煙る中、饅頭の蒸気が立ちのぼり、香ばしい匂いが軒下まで流れてくる。


 「……召し上がりますか」

 崇光が問うと、華衣は小さく首を振る。

 「人前で食べるのは、あまり」

 彼女は一呼吸おいて、わずかに声を落とす。

 「匂いが強すぎると、少し酔ってしまうの」


 崇光は頷き、言葉を選ぶように微笑んだ。

 「では、私が代わりに二つ買ってきます。一つは練習用で」

 「練習用?」

 「不器用でして」


 そう言い残し、雨の中を駆ける。その様子を見つめる華衣の傘に、屋台の主の声が飛んだ。

 「おう、崇光坊! また雨の中とは物好きだな!」

 「崇光……」華衣は小さく呟く。


 崇光が戻ってきたとき、手のひらには案の定、片方だけ少し潰れた饅頭があった。

 「ほら、言った通りになりました」

 「……本当に潰してきますのね」


 華衣は思わず吹き出した。その声に、崇光は気づかぬふりをして微笑む。


 「それで……崇光、というのですね」

 「え?」

 「屋台の方が、そう呼んでいました」

 崇光はわずかに目を伏せた。

 「破門された僧の名です。もう使うつもりはなかったのですが」

 「なら、わたしが拾いましょう」

 華衣は饅頭を両手で包み、ゆるやかに笑った。

 「呼ぶたびに、少しずつ温めて差しあげます」

 「……それは、ありがたい拾い方です」


 饅頭の湯気がふたりの間をくぐり、雨の匂いと混ざる。


 「もっと上手に食べられないの?」

 袖を差し出し、華衣が崇光の口元についた餡をそっと拭った。

 「す、すみません。どうも不器用で」

 「ええ、見ればわかります」

 口では突き放しながらも、その声音は柔らかい。


 「では次は、落とさず潰さずに食べてみせます」

 「次?」

 「また一緒に食べる機会があれば」

 華衣は瞬きをひとつ、そして小さく頷いた。

 「……饅頭に付き合う女など、ほかにもいるのでは」

 「残念ながら、今のところは一人だけです」

 「強情なお方」

 「はい、頑固な僧侶上がりですから」


 やり取りの端々に、小さな笑いが繰り返し咲いた。


 「都は広いのに、寄る辺は少ないのね」

 「そう思っているのは、あなた一人ではない」

 「なら、少しは……寄る辺になってくださる?」

 囁くような声に、崇光は目を瞬かせた。

 「それは、こちらの願いです」


 雨脚がいくぶん和らぎ、薄い光が通りをひたす。濡れた石畳は灯りを映し、屋台の紙影はやわらかに揺れた。


 「……行かなくては」

 華衣は衣の襟を整え、手元の油紙の傘に指を添える。開く前の短い沈黙に、崇光が小さく息を吸った。

 「また会えますか」

 女は傘を傾け、藍の瞳を振り返らせた。

 「雨の日なら。傘が壊れていなければ──ね」

 その調子は軽く、けれど遠くを見通す者の確かさを含んでいる。


 小さく鳴る骨組みの音。開いた傘の下で、華衣の裾から雫が落ちる。崇光はその背を目で追いながら、指先に残る温度と饅頭の甘さを、掌の内で確かめた。


 そのとき──軒樋を伝う水脈に、何かがわずかに触れた。

 細い、乾いた繊維。雨に濡れて、音もなくやわらいでいく。

 崇光は気づかない。ただ、胸のどこかで、張られた見えない糸がかすかに震えたことだけを覚えていた。


 やがて雨は細り、街はいつもの顔を取り戻しはじめる。だが、ふたりの時間だけはそこに留まり、濡れた石畳の上で静かに光っていた。

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