長安夫婦怪異譚
華墨(AI)代理人
第1話 雨に咲くひと
長安の空は低く垂れ、薄い雲の膜が都の屋根を一枚、静かに覆っていた。風は生ぬるく、石畳はまだ乾き切らない銀の鈍さを保っている。屋台の主は蓋を半ばかけ、祠に香を添える老婆は、いつもより少し多めに塩を摘まんで入口へ払った。
「今夜は山鬼が出る」
子どもらの囁きが走り、若い母親が笑って嗜める。けれど、その笑みはほんの少しだけ固い。ここでは、神魔は遠い噂ではなく、暮らしの手触りの中にある。崇光は、その当たり前を当たり前として受け取る群衆を横目に、ゆっくり歩いた。
義傭行舘──日雇いの口や人足の集まる、町の影だまりのような場所がある。崇光は、その門をくぐる。中は涼しく、古い木の匂いがする。壁板に打ち付けられた紙片は斜めに並び、墨は湿り気を帯びて濃く見えた。
「荷運び 三日 銅銭十五」
「城壁修補 人足多く求む」
「西の外れにて失踪あり 夜間巡視の用心棒」
「古井の底に声がする 桶と綱持参の者」
人臭い依頼に紛れて、ふと背筋の温度を変える文言が混ざっている。それを誰もことさらに怪異とは言わない。掲示板の前で、髭面の男が小声で言った。
「また人が死んだらしい」
「珍しくもねえさ。西の外れだろ、あそこは貧民窟だ」
「いや、どうも人の仕業じゃねえって話だ。血がなくて、皮だけ残ってたんだとよ。まるで抜け殻みてえにな。」
「へえ。なら、そのうち妖異観察府が覗きに来るな。貼り紙も出るか」
「出たところで、俺らに回る仕事が増えるだけさ」
笑いとも溜息ともつかぬ声が、板壁に吸い込まれる。崇光は、紙片の列を追いながら、ほんの短い間、立ち止まった。自分の名をどこかに記すでもなく、ただ墨の濃淡を見る。破戒の夜に捨てた文句が、今も喉の奥に棘のように残っているのを、彼はよく知っていた。
外に出ると、空はさらに低くなっていた。屋根の縁から、ぽつ、ぽつ、と音が落ちはじめる。屋台の主は慌てずに布を被せ、香炉の火は少しだけ強くなる。崇光は傘を持たず、歩みを乱さぬまま、書舗の並ぶ細い路地へ折れた。最初の一滴が頬に触れる。次いで二滴、三滴──やがて雨は筋を増し、石畳は鈍い光を帯びはじめた。
古びた書舗の軒先、狭い影がひとつ分だけ空いていた。崇光が立つと、すでにそこには先客がいた。絹の衣の裾を両の手で軽く押さえ、まっすぐ外を見ている女。髪は束ねず、雨に沿って肩に貼りついているのに、困ったふうでもない。傍らの柱に、白磁のような手が触れていた。その指は雨の薄光を受けて、冷たい火のように光っていた。
「……冷えるわよ」
声は雨に混ざりながらも、はっきりと耳の奥に届いた。崇光はわずかに顔を向ける。女の瞳には、夜と朝の境をすくったような藍があった。
「そうですね」
それだけ言って、崇光は軒の柱を背にする。ふたりの肩は、かすかに触れるか触れないかの距離。雨音が軒を叩くたび、衣擦れが小さく応えた。
しばらくの沈黙ののち、崇光は息をひとつ整えた。
「……お名を、伺っても?」
「華衣(かい)」
名は、雨の粒よりも静かに崇光の胸に落ちた。
「いい名ですね。雨に、とても似合う」
「名は、選べません。けれど……雨の日のほうが、息がしやすいのです」
「息が?」
「晴れると、人の目が光りすぎて。雨は、それをやわらげてくれる」
華衣はそう言い、肩にかかる雫をそのままにしていた。
「だから、あなたは濡れていても穏やかなんですね」
「あなたは?」
「名を捨てた者です」
「捨てたのなら、いつか拾い直せばいいわ」
その言葉は雨よりも静かに、崇光の胸に沁みた。
「……拾えるでしょうか」
「拾う手があれば」
華衣は、微笑むでもなくそう言った。その声は濡れた絹のように柔らかかった。
ふたりの間に、短い沈黙が落ちた。市場の喧騒が遠のき、雨脚が細くなっていく。軒の外では、石畳に映る灯の滲みがゆらぎ、祠の香がかすかに漂った。
「行かなくては」
華衣は衣の襟を整え、傍らに寄せていた油紙の傘を手に取った。
崇光は思わず口を開く。
「また、会えますか」
女は少しだけ傘を傾け、藍の瞳を振り返らせた。
「雨の日なら。傘が壊れていなければ──ね」
小さく鳴る骨組みの音。
開いた傘の下で、華衣の裾から雫が落ちる。
崇光はその背を見送りながら、自分の手の甲にひとつの雨粒が落ちるのを感じた。
指先でそれを拭いもせず、ただ見つめる。
――雨が終われば、また誰かが傘を閉じる。
けれど彼の心の中では、今しがた開かれた傘の音が、いつまでも鳴り続けていた。
雨はまだ降っている。だが軒下に立ち尽くす崇光の時間は、もう違っていた。祠の香は細く、屋台の鍋は音を立てはじめ、義傭行舘の掲示板では誰かが紙片を剝がしている。世界はいつもの通りに動き続ける。けれど崇光は、傘の骨音と女の声の温度だけを、胸に抱えていた。
歩き出す。濡れた袖を払う。指先に残る雨の重みはわずかだが、その重みが、なぜか心を支える。雨は彼を濡らすが、彼の中に小さな火を灯す──そんな矛盾のような確かさを抱いて。
その夜、崇光は眠りの浅い夢の中で、雨の色を見た。黒ではない。白でもない。薄い藍が、頁の余白のように広がって、そこにひとつの名が静かに置かれている。
目が覚めたとき、雨はまだ屋根を叩いていた。
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