第11話 少女
――翌日 08:10|大阪市北区・市立中学校付近/MoRS観測構成員レポート
「対象は、本日も出席しています。制服は正規のものですが、袖口に小さな裂けがあります。リュックのベルトも片方破損していて、生活状況は不明ながらやや荒れた印象を受けました」
MoRS現地構成員からの報告は、低圧な声で淡々と続けられていた。
その音声を聞きながら、雪乃はディスプレイに映る映像のピクセルを拡大し
制服の繊維のほつれ、足取りのリズム、視線の動きなど、細部まで確認していく。
「歩行時、10秒に1回ほど背後を振り返る癖があります。周囲に警戒しているというより、“誰かを探している”動作に近い」
「家庭環境は?」
「確認中です。市区町村レベルでは所在不明児童に該当していませんが、戸籍情報の一部に改竄の痕跡があります。複数の公共機関データベースに微妙な不整合が残されており、誰かが“存在を整えすぎた”ような印象です」
「……雪乃」
「はい、大佐」
「この少女の心理構造は、通常の発達経路から逸脱している。“拒絶”でも“順応”でもない、異質な選択の連続だ。しずめ──あのワードも、おそらく彼女自身が“意味を持たせた”ものだろう」
「……彼女自身が、ミームを“意味化”したと?」
「そうだ。本来、ミームは外的情報によって認知・模倣されるが……
彼女は“意味を与える側”になっている。これはもう、感染ではなく、“変換”だ」
出自が曖昧な人間が、発達の遅れや社会性が獲得できないといった精神障害の状態である。そういったことは現代ではさほど珍しくない。
しかし、不自然なまでに異質な行動が目立つ。
仮に、学習障害や注意欠如多動性障害の場合であれば、特定の動作を行うことがあるため、心理学に精通する者とりわけそれを表の生業とする大佐の場合であれば
見分けることは容易だ。
だが、その大佐が既知の精神障害ではなく、逸脱という言葉を使った。
雪乃は数秒間沈黙したのち、端末を操作しながら応じた。
「情報工学的には、通常の人間がそのような役割を果たすことはあり得ません。
……ですが、もし彼女の中に“第六の処理層”いわゆる《構造化された感情層》
が存在していたとしたら、話は別です」
「つまり、感情に意味を与える“前”に無意識下で情報を組み替える能力が備わっている?」
「ええ。これは仮説ですが、彼女は無意識的に“物語化”している可能性があります。
自身の世界を、自身が生き残るために再編集している。その結果、ミーム自体
が“彼女を媒介として強化される”」
「……なるほどな。我々が脅威と見なすミームの形は、すでに“彼女の内面”によって
再設計されていた、というわけか」
彼女の出自は分からない。しかし、彼女の生活はとても充実しているとはいい難い状況であり、その中で発生するストレスを"しずめ"という単語を羅列することで解消している。
そこには、彼女が思う社会に対する不満や現状に対する不安など、負の感情がこもっている。
「つまりは、この少女が変われば、“しずめ”もまた別のものになる」
大佐は短く息を吐いた。
「これほどまでに感情が籠っていれば、その文字はもはや呪いだ。」
技術の発達が未熟な時代の伝承などの言い伝えとして残っているものの中には
自然災害などの偶発的事象を起こった頻度などの傾向を元にしているものが多く存在する。
現代では、物語的言い伝えとして認知されているが、作成に当たっては注意喚起的な意味を含んでいる。
“敵”が何を目的とした存在なのか、それは分からない。
だが、豊富な知識と類まれなる能力を持っている人物がいることはわかる。
「予測だが、物語を音韻や語彙に不安を誘発する要素を込めて、その上で物語構成の中で、段階的に周囲の不安を誘発するよう造り、その物語と最低限生活できる行動と合わせて刷り込んだ場合」
大佐は可能性を坦々と述べる。それを雪乃は少し顔を曇らせながら聞いていた。
「大佐、概ね理解できますが、人間…いいえ、生物には不可能な領域です。」
「そうだな。不可能と言うに等しい膨大な予測が必要だ。」
雪乃の顔は、子供がいじめられていることを聞いた母親の表情そのものだった。
「これは、ただの観測任務では済まないな。 ……今後、彼女が再び“情報を生む”局面が来たとき、敵がそれを“道具”として使わないという保証はない」
「同感です、大佐」
「雪乃、観測を続けろ。接触の必要はないが、彼女の“情報の流れ”を可能な限り捕捉しろ。SNS、校内での会話、家族関係、そして感情の変動」
「承知しました。この子の“世界のかたち”を、調べてみせます」
その時、雪乃の声の中に少しだけ曇りが少しだけ晴れたように見えた。
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