一章 消したい、消えたい

さざめき

 は、はじめのうちはそよ風に運ばれて迷い込んできた一粒の種に過ぎなかった。雨が降らなければは芽を出すことはなくて、わたしという、ひとりの人間の身体の中で腐って、土に還ってしまっていたのかもしれない。そのはずだった。


 しかし、はやがてわたしの心の表面に芽を出し、手を伸ばしても辿りつかないような心の奥底まで根を張ることとなり、終いには、身体じゅうを貪って、蔦のように生い茂るまで生長を続けていった。


 わたしを蝕むに、水をやったのは誰か。


 熱に当てられたかのようにぼうっとしながら、頭の中にそのトラウマチックな映像を再び焼き付けようとしていたら、頭に水を被った。


「当たり?」


「うわ当たりだ。やばっ、あたしたちまた悪いことしちゃったかも」


「違うよ私たちのせいじゃないって。掃除のホースがさ、ほら、こんなボロボロなのがいけないんだって。たまたま上まで飛んじゃって、それがかかっただけでしょ」


「だよね。私たち悪くないもんね」


「うん」


「そんなことよりさー。もう少しで時間じゃん。早く教室帰って、休み時間にしよ」


「そうじゃん。帰ろ帰ろ」


 三人程度の足音が軽やかに遠ざかっていく。すると授業五分前の予鈴が鳴って、わたしは、もはや涙を流すことすら忘れていることに気づいた。




 濡れた髪を根元から絞りながら、トイレの個室を出る。開け放たれた窓の外を見ると、ジャージに身を包んだ下級生の群れがグラウンドに向かって飛び出していくのと、それを怒鳴りつける体育教師の姿が見えた。


 入学前から噂には聞いていたが、やはり本当だったのだ。


 大学受験にうるさい私立の進学校なだけあって、ここで供されている教育の形をした何かは苛烈を極めていた。定期試験や授業内課題の成績が悪ければ強制的に居残りをさせ、教師たちが良し、と言うまでは決して帰してはくれないし、受験に関係ないような体育や家庭科といった類の授業や、些細な生活態度についても、あれこれうるさい。


 そのうえ嫌なのが、監獄にも似たこの環境が、女子校であることだ。


 ここに集められているのは皆、各々の地元の、第一志望の進学校を落とされて辿り着いた、譲れない空虚な自尊心と負け犬の心の染みついた敗北者で、わたしもそのそしりを逃れることはできないだろう。


 女というのは、男の目がないと途端にぶるのをやめて、凶悪な牙を剥く生き物なのだと知った。


 さすがに主語が大きいだろうか?


 いや、わたしだって女だけれども、少なくとも、この類の環境に集まってくる同族の質というのは、今まで生きてきた中では自覚することのなかったような残酷さを色濃く、深く浮き彫りにしていると感じる。


 廊下を歩く。周りの冷たい視線が濡れた身体を冷やすけれど、もう慣れてしまった。

 

 こんなことになったのには訳があって、そんな負け犬だらけの学級の中でも、群を抜いて学がなくて、そのうえ鈍臭かったひとりの同級生のことを、わたしの中に微かに残った優しさのようなものが放ってはおけなくて。そんな彼女がいじめられているのを、不必要にも庇ってしまったから。


 よくある話だ。けれども、たったそれだけのことで、今わたしは濡れた身体を引きずって教室の扉を開くと、中で聞こえていた楽しそうなお喋りが一斉に静まり返って、視線が逸れていくのを感じて、席に座ると、まるでわたしが何か強烈な臭いを発していて、それを皆が避けているかのような疎外感に支配されている。


 教室に数学の教師が入ってくる。中年の小太りの男で、頭から濡れてシャツの透けたわたしの姿を見るなり、いやらしい視線を投げかけてから、言った。


「大丈夫ですか。今日は、雨なんて降ってないはずなんですけどね」

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