兄 にいに

@wanwanwan123

第1話


にいに





風が吹くたびに、築年数の経った木造アパートはギシギシと悲鳴をあげる。



それが私たちの家だった。



両親を亡くして以来、私は、兄のハヤトと、姉のユキの3人で暮らしている。家計を支えていたのは、高校を出てすぐに働き始めた兄だった。


私たちにとって、兄は単なる家族ではなく、両親の代わりであり、揺るがない柱だった。貧しいけれど、兄がいてくれれば大丈夫。私たちはそう信じて生きてきた。

その均衡が崩れたのは、兄が「結婚する」と告げた日だった。

​姉のユキは、心から喜んで「よかったね、お兄ちゃん」と言った。しかし、私は心臓を鷲掴みにされたような、息苦しい感覚に襲われた。兄が、兄だけのものじゃなくなる。私たちの家から、一番大切なものが奪われるような気がして、胸が張り裂けそうだった。

結婚相手のカオルさんは、兄と違って明るく、いつも笑顔を絶やさない人だった。初めて家に来た日、彼女は「アキちゃん、よろしくね」と、私の頭を優しく撫でた。私は、その手がひどくよそよそしく感じられ、反射的に身を引いた。

新しい生活は、兄夫婦と姉、そして私の4人で始まった。賑やかになったはずなのに、私は余計に孤独を感じるようになった。兄はカオルさんと楽しそうに話す。その光景を見るたび、私の心には小さな棘が刺さるようだった。

​「アキちゃん、これ、よかったら使って」

​ある日、カオルさんが新しいシャンプーをくれた。香りの良い、私には手の届かない高級品だった。

​「いらない」

​気づけば、私はそう吐き捨てていた。彼女は一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って「そっか、ごめんね」とシャンプーを棚に戻した。その笑顔が、私の心をさらにかき乱した。「どうしてそんなに優しいの? どうして、兄を私から奪うの?」そう叫びたかった。

夕食のとき、兄がそっと私の隣に座った。

​「カオルにひどい態度を取るな。カオルは、これから家族になるんだ」

​兄の言葉に、私は抑えきれなかった感情を爆発させた。

​「兄を取られた気分なの! 私たち、兄がいないとダメなのに……!」

​声が震え、涙が溢れて止まらなかった。兄は何も言わず、ただ静かに私の肩を抱きしめた。そして、私にしか聞こえない声で囁いた。

​「俺は、アキを捨てたりしない。家族は増えるんだ。減るんじゃないんだよ」

その日以来、私はカオルさんを避けるようになった。顔を合わせないように、話しかけられないように。しかし、カオルさんは決して私を責めなかった。

ある夜、熱を出して寝込んでいた私に、カオルさんはリンゴをすりおろして持ってきてくれた。彼女の顔には、心配そうな色が浮かんでいた。

​「アキちゃん、大丈夫? 食べられるときに、少しでも食べてね」

​スプーンに乗せられたリンゴは、ほんのり甘く、冷たくて、弱った体に染み渡った。そのとき、初めて、彼女の優しさが心に届いた気がした。

​私は、カオルさんを見つめながら、ぽつりと呟いた。

​「……ありがとう」

​それは、今まで彼女に言ったことがない言葉だった。カオルさんは、驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、兄といるときとは少し違う、私に向けられた、心からの笑顔のように見えた。

​兄の言う通りなのかもしれない。家族は、減るのではなく、増えるのだと。私はまだ、その新しい生活に馴染めないでいるけれど、ほんの少しだけ、この4人での生活に、光が差し込んできたような気がした。

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