第2話 このまま朝まで


「やぁ、皇帝陛下。今日はお妃様と、庭園散策してきたんだって? いいねぇ、初恋の成就を満喫してるって感じだねぇ」


 メルティナを部屋まで送り届けた後、アルベリオスも一度、私室へと戻った。扉を開くや、部屋の主人あるじ然として居座っていたヴァルの、口笛と軽口が彼を出迎える。


「まぁまぁ、こっちに座って詳しく聞かせておくれよ。僕もいろいろ話したいしさぁ」


 肩を抱かれた途端、アルベリオスの表情が曇った。

 今更、幼馴染の態度を不快に思ったりはしない。ヴァルがやたらとお茶らけて話す時、たいてい良くない知らせを携えていると、知っているからだ。

 肩に添えられたヴァルの手には、一通の書状が握られている。昨夜、ルーヴェントから送られてきたものと同じ魔法の気配が、ぷんぷんと漂っていた。




 ***



 寝所の窓辺には柔らかな風が吹きこみ、薄紗のとばりを優しく揺らした。

 書面に目を落としたメルティナが、息を呑む。そんな微かな息遣いさえ、冴え冴えと響き渡ってしまうほど、今宵は静かな晩であった。


 つい……と、アルベリオスの指が月光のほうを示す。指差し一つで、侍女らは窓を閉めてかかった。すべての窓が閉ざされると今度は、眼差しで彼女たちに退室を促した。

 音もなく、気配が絶たれる――。

 黙り込んだメルティナから書状を取り上げ、アルベリオスはそれを細切れに裂いた。


「理解できたか? ルーヴェントはあなたを、タルヴァニアに乗り込んでくるつもりらしい」

「……救いなど、いりません」

「ああ、それを聞いて安心した。ルーヴェントには、聖女直々の言葉を借りて返事をしてやろう。これで諦めることはないだろうが、そう易々と我が聖域を侵させるつもりもない。あなたは時に身を任せ、ゆるりと過ごしていればいい」


 息を忘れてしまったように、メルティナの顔は蒼白で、そっと触れた肩は大きく震え上がった。しろがねの瞳が、虚ろにアルベリオスを捉える。


「時が満ちれば、あの男が退いてくれましょうか。どうして、心穏やかにその時を待てると言うのでしょう」


 汗か涙か、目の縁がきらりと瞬いた。メルティナは小さく息をつき、アルベリオスの頬へそっと手を伸ばす。静かに瞳を伏せると、白磁のような顔を傾け、唇を寄せた。

 アルベリオスがわずかに身を引いたからか、メルティナがまぶたを固く閉じていたからか――それは、口許に微かに触れるだけの、儚いくちづけにしかならなかった。


「昨晩は……失礼いたしました。もう、覚悟はできております」


 驚愕を抑え込もうとするアルベリオスの口許には、柔らかな温もりと拭いきれない震えが残される。震えを添えたのは、メルティナの小さな手だ。今その手は、淑やかな夜着の胸元を解かんと、紐を摘んでいる。

 金色の瞳を苦々しげに揺らし、アルベリオスが息を吐く。


「怯える女を抱く趣味はない」

「申し訳ございません。煩わしければ、どうぞ薬でも、魔法でも……わたくしが自失している間に――」

「そんな悪趣味な真似を、わたしにせよと言うのか!」


 胸の奥に鋭い痛みと深い悲しみが走り、アルベリオスは思わず声を荒らげた。

 なぜ。何が――。彼女をここまで追い詰めるというのか。知るすべも、憂いを遠ざけてやるすべも、アルベリオスには見つからない。


「利害で結ばれた仮の夫婦といえど、あなたをそのように扱ったりしない」


 怒りをも滲ませて抱き寄せると、腕の中でメルティナは小さく震えた。


「ですが……時は待ってはくれません」

「心が張り詰めていては、新しい命も芽吹かぬというだろう。まずは――互いの温もりに慣れることから始めよう」


 そう告げると、アルベリオスはメルティナの手を取り、寝台に身を横たえた。

 温かな掌を重ね合わせ、しっかりと……だが優しく包み込む。


「今度は、あなたの震えが止まるまで……この手を離さない」


 仇敵の手から伝わる温もりが、不思議と穏やかで心地よい。恐怖の波が引いていくほど、メルティナの胸には戸惑いが満ちていく。

 月光に輝く金の瞳はあの夜と同じなのに、どこか違う――それがなぜなのかわからぬまま、夜は更けていった。



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