触れることさえままならない(後)


 どうにか四阿まで辿り着くと、二人ともやっと息をつける心地がした。

 池の真ん中にも関わらず、四阿の中は清掃が行き届き、白い石のおもては自ら光を放つかのように磨き抜かれている。

 塵一つ見当たらないが、アルベリオスは真っ白な腰掛けの座面を軽く手で払ってから、メルティナの着席を促した。何か懐かしい温かさを思い出しながら、メルティナは腰を下ろした。


 何か特別な言葉を交わすでもなく、四阿の下で二人……ゆったりと渡る風を浴びていた。時折り、ちゃぽん――と水面に石でも投げ込むような、小気味のいい音がする。

 音が消えた後も、波紋の余韻が残る水面にメルティナが目を凝らしてみると、何かがひょこりと顔を出すところだった。

 それは池を伸びやかに泳ぎ、透き通った蓮の葉によじ登る。ちょこんとお座りしたかと思うと、軽やかにケロケロケロ――と歌い始めた。


(カエル……カエルだわ!)


 メルティナは思わず腰を浮かせ、四阿を飛び出していた。蓮葉を数枚渡って、声のするほうへと向かう。

 メルティナの靴が、水晶をリンと鳴らした。するとぴたりと声はやむ。カエルは息を潜めながら、黄緑色の頭をくりっとひねり、メルティナを見つめていた。


(違った……アズ様ではない)


 肩を落としたメルティナであったが、そんな彼女を慰めるかのように、カエルは再び歌い始めた。すると、水面が揺れて、波紋がいくつも描かれていく。たくさんのカエルたちが顔を出し、辺りはたちまち大合唱となった。


「まぁっ……ふふふ。素敵な調べですこと……」

「カエルがそんなに珍しいか」


 急に飛び出したメルティナを追って、アルベリオスもやってきた。

 二人の記憶を交差するカエルの存在に、にわかに緊張が走る。ともすれば、アズについて手がかりを得られるのではないかと、メルティナは慎重に言葉を選んだ。


「愛らしいと感じたのです。……まるで、人のように上手に歌っていらっしゃるから」

「人のように……か」


 アルベリオスは、メルティナが他にも言葉を続けるのではないかと期待して待っていたが、何もないとわかると、自嘲を込めて小さく息を吐いた。


「ただのカエルだ……いや、違うか。この池にいるカエルはそう――供物だ」

「供物――」


 恐ろしげな言葉に、メルティナは息を呑む。


「その昔この地には、鋭き一角を持った竜がおり、タルヴァニアの民は聖獣として崇めていたのだ。竜は魔を退け、大地に実りをもたらした。獰猛な牙で、海をも裂くと恐れられた竜ではあったが、好物はカエルだったそうだ」

「タルヴァニアの……創世神話でございますか?」


 アルベリオスは頷く。

 どの国にも、それぞれの形で国の成り立ちが伝えられているものだ。初めて耳にする神話に、メルティナは興味深く耳を傾けた。


「しかし、国土の繁栄とともに人間は驕り、聖獣への信仰は薄れていった。大地を荒らした人間に怒った竜は、彼方へと飛び去ってしまったという。以後タルヴァニアには魔のものが巣食い、長らく混沌の歴史を歩むこととなった。我々人間は過ちを悔い改め、カエルを捧げて竜の帰りを待っているのだ」


(かつて存在した神を、呼び戻すための供物……)


 そこはかとなく儀式じみた、タルヴァニアの信仰に、メルティナは震える。この中に、アズのような者がいないとも限らない。そう思うと、愛らしい歌声も哀れに思え、メルティナは憂いの眼差しで彼らを見つめた。


「随分と、熱心にカエルを見つめるのだな。……あなたはカエルが好きなのか?」


 絞り出して唸るようなアルベリオスの低い声に、メルティナはぎくりとする。


(いけない――。この方のアズ様への仕打ちを思えば、カエルを疎んでいるのは明らか……。またご機嫌を損ねるわけには……)


 気をいて失敗しては、元も子もない。今日のところは、これ以上カエルに触れないほうがよさそうだ――と、メルティナはふるふると首を横に振る。

 その答えを受けた皇帝の肩が、しゅんとしおれてしまっているのには、残念ながら気付いていない。

 

 メルティナは話を逸らすため、池の様子を目の端に捉えた。奥のほうに、蔦の絡む石柱がいくつも並んでいるのを見つけると、言うより早く足を向ける。


「あちらは、少し趣きが異なるのですね」


 初めはあんなにおっかなびっくりだった透明な蓮葉も、ここまで来てしまえば慣れたるものだ。

 花から花へ、蝶が舞う――メルティナの軽やかな足取りに、うっかり見惚れていたアルベリオスだが、はっと我に返り声を上げた。


「止まれ! それ以上、近づいてはならない!」

「えっ? きゃあっ!」


 唐突な制止の声に、頭と体がねじれを起こす。もつれた足が滑り、メルティナの爪先は水面へと引きずりこまれるように一直線だ。

 アルベリオスが手を掴み、ぐいと引き寄せる。少しだけドレスの裾を濡らしてしまったが、寸手のところで落水は免れた。


「ありがとうございます……助かりました」

「いや、今のはわたしの不注意だ。声のかけ方にも気をつけていれば、あなたを危険な目にあわせず済んだ」

「いいえ。わたくしが勝手をいたしました、申し訳ございません。あちらには、何があるのですか?」

「あの柱の向こうには、悪しきものを封じてある。先程話した、タルヴァニアに巣食った魔を煮詰めたような、恐ろしい存在だ。決して近づかないでくれ」


 握られた手に痛みを覚えるほど、アルベリオスの手には力が込められていた。


「承知いたしました……あの、そろそろ手を離していただいても……」

「ああ、そうだな……いや――。だめだ」

「……陛下?」


 アルベリオスは、なお強く手を握る。


「足をくじいたりしていないか。わたしが支えるから、ゆっくり向こうへ戻るぞ。歩くのが難しければ抱えていこう」

「い、いえっ。この通り、どこも問題ございません。ですので、どうかお手を……」

「だめだ。部屋へ着くまで、離すことは許さない。今日はもう出歩かず、ゆっくりしていなさい」

「は、はい……ご心配をおかけして、申し訳ございません」


 握られた手に強い拘束の意図を感じて、メルティナはうつむき、言葉を飲み込んだ。アルベリオスに手を引かれながら、りんりんと蓮葉を鳴らして池を渡る。

 歩き出したばかりの二人を、カエルたちがささやかな歌声で見送っていた。

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