ケース③ 陸上女子さん


 私は特待生になれなかった。



 スパイクのピンをトラックに食い込ませながら、スタートラインに立つ。

 心臓がドクドクと鳴り、その鼓動が耳の奥に響く。

 雲一つない晴天の下、肺いっぱいに吸い込んだ空気が体の中を駆け巡るのを感じた。



 いよいよだ……。



 太腿の付け根まで露出させたレーシングショーツタイプのウェア、お尻側のふちに指をひっかけるようにして、よじれてるところを弄った。

 別にさほど気になるほど乱れてるわけじゃないんだけど。

 ただ、緊張感が増してくると、そうして指先でちょっとした作業を行うだけで気がまぎれるような気がするから。

 ようは無意識的にやってしまう癖、競技に挑む際のルーチンワークみたいなもの。


 ひゅっと一陣の風を受けて、髪が舞い上がった。

 遥か先まで真っすぐ続く平行する白線のフィールド。


 私が青春のほぼすべてをかけているといっていい、戦場そのもの。


 自分が突出した才能を持っているわけじゃないのはわかっている。

 それでもこうまでひたむきになれることを見つけられたんだから、いけるところまで行きたかったのだ。

 たとえ、特待生になれずに妊娠出産を義務付けられてしまっていたとしても。


 もう数回、私は人特法による経験を済ましている。


 つまり私を選んでくれた男性との性行為をちゃんと国民の義務にしたがって行ってきたのだ。

 幸い、これまでパートナーになった全員、最初のオジサマも含めてみんな紳士的で、我ながらスムーズに済ませられてきたとは思う。

 もしかしたら、私は結構向いていたのかも。

 ひどく痛かったり苦しかったりしたという、悲惨な事例が珍しくないのは耳にタコができるほど友だちや部活の先輩後輩から伝わってくるんだから。

 一番初めの喪失の瞬間から、それなりに身体が前向きな反応をしてくれたのはラッキーだったと思う。


 それ以降もさほどの心理的抵抗も肉体的負荷もなく、滞りなく、するするとやりこなせたのはよかった。

 部活への悪い影響も全くなさそうで、成績が落ちるような様子もない。

 むしろあの時の独特で形容しがたい感覚は癖になりそうなくらいで、本能的に生物としての肉体は求めているんだろうなと思い知らされるような気持ちにすら。

 ここのところのタイムの伸びも、もしかしたら身体が活発化してプラスに出てるのかもしれない。


 ただその結果齎される必然の、そして本来の目的である妊娠自体については決して望んでいるわけではなかった。

 いや、国民の義務だし、子供をつくることが素晴らしくて何よりも大切なことだというのはわかっているんだけど。

 でもせめてもう少しだけ、時間の猶予がほしかったんだ。

 この私の部活の集大成というべき大会を最後まで勝ち残って、結果を出すところまでは。


 これが特に成績優秀な特待生だったら、猶予が与えられていたんだけど。

 残念ながら私はそこまでには至らなかった。

 だから必然的に設定されたタイムリミット。


 陸上競技を続けられるのも、妊娠したことが判明するまでという、時限爆弾を抱えることになったというわけだ。


 そうして地区予選が始まってからずっと、行為が終わってからの悶々とした時間を経て、不発だったことを確認して安堵するということを繰り返していた。

 つい先週も、済ましてきたばかりの濃厚な身体接触。

 その時の記憶が、与えられて受け入れてしまった感覚が生々しく全身を這うように蘇ってくるような気がする。


 セパレートタイプのウェアからむき出しの、日焼けしたお腹とか。

 几帳面に処理してる脇とか二の腕とか。

 私にとって一番重い価値を持つ、我褒めがちに見た目も悪くないと思ってる自慢の脚とか。

 あの時、いろんな方法で愛されてしまったそこ、ここのいじましくて切ない感覚の記憶。



 別にあれ自体はヤじゃないけど。

 男の人にやさしくされるのは、むしろ好きみたいだけど。

 ……でもやっぱり子供ができちゃうのはまだ困る。



 そんな嘘偽りない私の本音。

 「オン・ユア・マークス…」の音声が聞こえてきたその瞬間に、きっぱりと消え失せた。

 全ての雑念が、社会的な肉体的なあらゆる都合もしがらみもなくなって、ただ走ることだけに存在が切り替わる。 


 人生で最高の瞬間。


 腰を落として、スターティングブロックにスパイクの裏をあわせたら。

 目を閉じて、何もかもを遮断した私に聞こえるのは自分の呼吸音だけ。


「セット…」


 続く号令とともに両手を地面につけ、重心を前に移動させてお尻を高く上げた。

 指先からふくらはぎ、太ももまで、全身の筋肉がピンと張り詰める。

 スタートの合図を待つのは意識すらしていない。

 静寂が支配するトラックで、酷く緩慢な時間が刹那に流れていき。


 パンッ!


 乾いた破裂音が耳に突き刺さった瞬間。

 すべてを解き放ち、風になった。

 誰も視界に映らない空間を、ただ只管に駆け抜けていった。



 私がお腹の中に新たな命を宿していたことが判明したのは、全国大会への出場が決まった直後のことだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る