第9話 初夜 君を愛することはない
結婚式は、何事もなく終わった。
形式も祝辞も、すべてが予定通りに進み、参列者たちも祝福の笑みを浮かべていた。
──だが、美琴にとっては茶番に過ぎない。
心を読める美琴にとって、絵梨に成りすますのは造作もなかった。
和也も親族も、誰ひとり疑いを抱かない。
だからこそ、胸の奥にひどい虚しさが残る。
私はここにいるのに。
誰も、私の正体に気づいてくれない。
気づいてほしいと願うことさえ、もう叶わない。
夜になった。
新しい生活の始まりを象徴する初夜──。
和也はどうするのだろう。
夜更け、ようやく扉が開いた。
和也が部屋に入ってきた。
少し酒の匂いがする。
祝いの席で皆と笑っていたあの顔のまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「疲れたかい?」
和也が、柔らかく問いかけてきた。
声色は優しく、笑みを浮かべている。
──けれど、私には聞こえてしまう。
彼の胸の奥に沈んでいる、本当の声が。
〈君を愛することはない〉
〈僕の愛は、美琴にある〉
絵梨の皮を被った美琴は、聞いてしまった。
「ええ、大丈夫よ」
笑顔を貼りつけ、答える。
和也は、どうして絵梨と関係を持ったのだろう。
和也の心の声には、絵梨との行為の記憶が、ひとかけらも残っていない。
まるで最初からなかったみたいに。
──耐えきれず、美琴は和也に聞いた。
「ねえ……私たちの“初めて”の時、覚えてる?」
はじめて絵梨を抱いた夜のことを、和也は思い出した。
あのとき僕は、美琴が浮気している――そんな噂を耳にして、自暴自棄になっていた。
酒でも飲まなきゃやっていられない、そう思った。
絵梨とふたり、店で飲んでいた。
ビールを一杯、喉を潤す程度に口をつけただけ。
そのあと、カクテルを飲んで……そこからの記憶が、すっぽりと抜けている。
酔いつぶれるほど飲んだ覚えはない。
むしろ、あのときの僕はまだ正気で、愚痴をこぼしていただけのはずだ。
――気づけば、朝。
隣に裸の絵梨が横たわっていた。
ドアが開き、すぐに絵梨の両親が部屋へ入ってきて、血相を変えて僕に詰め寄った。
「責任を取ってくれるんでしょうね」
声を荒らげる父親、涙ぐむ母親。
目の前に突きつけられた現実に、僕はなすすべもなく頷くしかなかった。
……あれは、はめられたんだ。
そう思うしかなかった。
僕と美琴は、結婚まではそういう関係にならないと約束していた。
互いの気持ちは確かに重ね合っていた。
夜遅くまで並んで歩き、手を繋いで、抱きしめ合って――唇を重ねることもあった。
けれど、僕らは一線を越えなかった。
美琴はいつも「結婚まで大切にしたい」と言って、僕もその思いを尊重した。
だからこそ、僕らの間には信頼と純粋な愛があった。
……それなのに。
ほんの一度、絵梨と酒を飲んだだけで。
ビールを一杯、カクテルを数口。
それだけで記憶が途切れ、朝には裸の絵梨と同じ布団にいた。
信じられなかった。
美琴とですら守ってきた境界を、なぜ絵梨と……?
頭の奥がずきりと痛む。
考えようとすればするほど、意識の底が濁っていく。
これまで、絵梨が傍にいると、何も考えられなくなっていた。
まるで思考そのものが鎖で縛られてしまうように。
ただ彼女に頷き、流されるままに日々を重ねていた。
けれど――結婚式の朝。
白無垢に身を包んだ絵梨を目にした瞬間、僕は違和感に気づいた。
彼女の瞳は、どこか冷たく寂しげだった。
いつも僕を絡め取っていたあざとさがない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その時だ。
頭の中にかかっていた濃い霧が、ゆっくりと晴れていくのを感じた。
胸の奥に重く沈んでいた石が砕け、視界が澄みわたっていく。
そうして、今、久しぶりに、自分の意志で考えている――。
思い出した。
絵梨と初めて過ごした夜の、あの不自然な記憶の欠落を。すべての辻褄が合わないことを。
まるで――絵梨に操られていたようだ。
ここ数カ月の自分を振り返ると、どうしても説明がつかない。
美琴を傷つける言葉を吐き、卒業式という場で彼女を突き放した。
あんな残酷な仕打ちを、どうして自分が選べたというのだろう。
本来の僕なら絶対にしない。
なのに――あの時はそれが当然のように、頭に刷り込まれていた。
結婚式の会場で、白い衣装に身を包んだ絵梨を見た瞬間、
絡め取られていた糸がぷつりと切れた。
霞のように覆っていた意識が晴れていく。
なぜ、今この時に解けたんだ?
まるで――何かの効力が切れたかのように。
薬? 呪い? それとも――絵梨自身の何か。
僕は震える手で拳を握りしめた。
すべての記憶を繋ぎ直さなくてはならない。
美琴に――謝らなければ。
許してもらえなくてもいい。
もう一度、僕の前に立ってすらくれなくてもいい。
ただ、美琴は悪くなかった。
あの時、傷つけられる理由なんて、どこにもなかった。
それを、どうしても伝えたい。
胸の奥から込み上げる衝動に突き動かされながら、次の瞬間、全身が冷たくなる。
――僕は、一生をかけて愛そうと誓った相手を、裏切った。
しかも、最も残酷な形で。
あの日、彼女の涙に背を向けた自分の姿が脳裏に浮かぶ。
その一つひとつが刃のように胸を刺し、呼吸が浅くなる。
どう償えばいいのか分からない。
謝罪の言葉すでは、到底足りない。
それでも伝えたい。
美琴に、ただ「君は悪くなかった。僕が全て悪かった」と。
そして――その先に待つのは、自分が背負うべき罪の重さだった。
和也の心の声が、胸の奥に直接流れ込んでくる。
――美琴に謝らなければ。
――君は悪くなかった。僕が全て悪かった。
その言葉を聞いた瞬間、美琴の視界が滲んだ。
止めようとしても、頬を伝う涙は止まらない。
鬼の目にも涙――。
自嘲気味に、心の中の冷静な自分がつぶやいた。
そう、私はもう「鬼」だ。
裏切られ、踏みにじられて、憎しみに飲み込まれた存在。
なのにまだ、こんなにも彼の言葉に揺さぶられてしまうなんて。
「……馬鹿ね、和也」
声にならない囁きが、夜の闇に消えていく。
美琴は決心した。
──もう姿を消そう。
和也が眠りについたあと、美琴は静かに机に向かった。
薄暗い灯りの下、手にしたペンが小刻みに震える。
それでも止まることなく、紙の上に言葉を刻みつけていく。
震える指先が、揺れる心をそのまま映しているかのようだった。
「浮気して、他の男の子を身ごもりました。
もう戻れません。どうか探さないでください。」
絵梨の筆跡を真似るのは大変だった。
だが、滲んだ涙で紙が歪み、かえって本物らしく仕上がった。
最後に眠る和也にそっと囁く。
「……さようなら」
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