婚約破棄されたので、丑の刻参りをしたら、本当の鬼になりました

@pi-chan

第1話 婚約破棄の夜

 三月、春の匂いが街を包み始めていた。

 歴史ある神社の一人娘として大切に育てられた私――天野美琴あまのみこと、二十二歳。大学卒業を控え、三か月後には結婚式を挙げるはずだった。

 相手は青桐和也あおぎりかずや。クラスメイトであり、クラス公認の仲。誰もが羨む、絵に描いたような幸せな未来……のはずだった。


 和也は、大手企業への就職も決まり、爽やかな笑顔で周囲の視線をさらうイケメン。やや優柔不断なところはあったけれど、私は和也が本当に好きだった。

 卒業前の数か月は、行事や卒業旅行、新居探し、式の準備に追われ、会う時間が減っていた。それでも、私は信じていた――お互い忙しいから、会えないだけだと。

 卒業式はつつがなく終わり、そして二次会の会場へと移動する。和也と一緒に移動できなかったことに、少し違和感を感じながら。

 二次会の会場、華やかな照明の下で、久しぶりに和也の顔を見た。

 ――なぜ私のところに来ないのかしら。和也の隣には美琴みことの親友だった瓜生絵梨うりゅうえりがそっと寄り添っていた。

 乾杯の声が響き、笑い声があふれる中、彼は不意に立ち上がった。

「みんなに……話がある」

 会場のざわめきが静まる。私もグラスを持ったまま、彼を見上げた。


「みんな聞いてくれ……俺、美琴との婚約を解消することにした」


 グラスを落としそうになった。

 何を言っているのか、理解できなかった。

 だが、彼は続ける。

美琴みことは……俺にはもったいない女だ。でも、俺、瓜生うりゅうさんと一緒になりたいんだ」


 瓜生絵梨うりゅうえり。私の親友――だったはずの女。

 私に内緒で、いつから? どうして?

 混乱する私をよそに、彼は大勢の前で、まるで私が悪いかのように語り始めた。

「絵梨はすごく尽くしてくれるし、俺を支えてくれる。美琴は……あんまり、俺のこと考えてくれなかった…それだけじゃない…忙しいからと僕との約束を断り、他の男と会っていたんだ。結婚したら遊べなくなるからと言って」


 会場がざわめく。

 親友だった女の笑みが視界の端で揺れる。

 ――グラスが小さく見える。なんだか周りの物が全部小さく見える…耳鳴りが酷く、人の声が入ってこない。

 頬が熱く、指先が震える。全くの嘘なのに、ショックが大きく、否定することも怒ることさえできなかった。


 どうやって家に帰ったのか、覚えていない。

 あまりの衝撃に、涙すら出なかった。悲しいのかどうかも、よくわからない。

 胸が、鉛を流し込まれたように重い。


 和也との間に、話し合いはなかった。

 喧嘩もなかった。最近、お互いが忙しくて会えなかっただけだ。

 ――私の、何がいけなかったの?


 頭の中で同じ問いがぐるぐると渦を巻く。

 答えはない。

 

 ベッドに倒れ込んでも、まぶたは閉じられない。

 疲れているのに眠れない。

 泣くこともできない。


 つらい。

 つらい。

 つらい……。


 婚約破棄されたことが、まだ信じられなかった。

 泣くことも、眠ることもできないまま、夜が明けてしまった。

 鏡に映った自分は、顔色はくたびれ切っているのに、目だけがぎらついていた。


 ふと、襖の向こうから母の足音が近づく。

 「……美琴」

 心配そうな声がした。

 何があったのかは聞かない。ただ、小さな盆に湯気の立つマグカップをのせて、そっと私の前に置く。

 

 手に取ったカップが、じんわり温かい。

 口に含むと、甘くて優しいココアの味が広がる。

 ――ああ、温かくて、甘い……。


 気づけば、ぽたり、と雫がマグカップに落ちた。

 ようやく、泣くことができた。

 一度涙がこぼれ出すと、もう止まらなかった。

 自分の身体のどこに、これほどの水があったのか――そう思うほど、とめどなく流れ続ける。

 ひとしきり泣いて少し落ち着いても、すぐに和也の顔が脳裏に浮かび、また熱い雫が頬を伝った。

 どうして。

 理由を知りたかった。

 私がこれほどの仕打ちを受ける理由を。


 喉の奥が痛い。それでも、母に向かって言葉を絞り出す。

「……卒業式の二次会で……婚約破棄されたの」


 母は、黙って私を見つめた。

 少しの沈黙のあと、静かな声で言う。

「……そうだったの。――ゆっくり休みなさい」


 その声音は、怒りでも悲しみでもなく、穏やかだった。

 その優しさが、また私の涙を誘った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る