俺を残して消えた母が同じ匂いを振りまいていた

烏川 ハル

俺を残して消えた母が同じ匂いを振りまいていた

   

「それじゃあパトロール行くぞ、中里」

「はい、藤田部長。今日もガンガン職質かけてきましょうね!」

 ペア相手の巡査部長と一緒に交番を出て、夜の見回りへ。

 新任警官の俺にとっては、いつもの日常の一コマだった。

「いや、それはめとけ。いつも言ってるだろ、お前のは手当たり次第すぎる、って」

「そうですか? でも、ほら、藤田部長の同期の平川部長。あの人、新任時代に職務質問でうての強盗をつかまえて、その功績で交番勤務から刑事課に異動になったって聞いたから……。俺も平川部長みたいに出世したいんです!」

「いやいや、平川の場合は手当たり次第じゃなかったぞ。ちゃんと悪いやつ見極めてたからこそだ。それに刑事課への異動は、別に出世ってわけじゃないからな?」

 という感じで、先輩警官からたしなめられるのも含めて、いつも通りの出来事だったが……。


「おお、この店。いつも繁盛してるなあ」

 パチンコ屋の前を通りかかったタイミングで、巡査部長の藤田がチラリとそちらへ目をやる。

 ちょうど客の出入ではいりで、自動ドアが開くタイミング。店内の騒音が外まで届いていた。

 ネオンきらめく繁華街が、俺たち二人組の受け持ち区域だ。普通のレストランや喫茶店もあるけれど、スナックやキャバレーといった少しいかがわしい店がいくつも建ち並ぶし、完全に風俗店に分類される店もあるほどだった。

 いつもならば会社帰りのサラリーマンを多く見かけるが、今夜は私服姿の通行人が多いようだ。その点は藤田部長も気づいたらしい。

「世間様は、今日は日曜日だからな。俺ら警官は休めないけど」

「ああ、そういえば……」

「とはいえ、俺らだけじゃないぞ。ほら、見ろ」

 藤田部長が、目線だけで指し示す。

 そちらに注意を向けると、一人の中年男性が歩いていた。灰色のビジネススーツを着込んでいるので、休日出勤だったのだろう。

 右手には仕事鞄をかかえているが、反対側の手には赤い花が一輪。『束』ではないから花束とは言わないのかもしれないけれど、そんな感じにラッピングされている以上、公園などで手折たおってきたわけではなく、きちんと花屋で買ってきたものだ。

 おそらくは家族へのプレゼント。妻あるいは娘の誕生日だろうか。

 そう思ったけれど、口にしなくて良かった。藤田部長の次の言葉で、俺は自分の勘違いに――そして忘れていた事実に――気づいたのだ。

「今日は『母の日』だもんな。家で待ってる奥さんに、カーネーション買って帰るんだろう」

   

 俺は心の中で「あっ!」と叫んでしまう。

 今日は5月11日。今年は今日が5月の第2日曜日に相当するから、なるほど、いわゆる『母の日』だった。

 今日の日付は理解していたけれど、それが『母の日』であることまでは意識していなかったのだ。


「中里は、実家はどこだっけ? 大人になると親御おやごさんと話すのも気恥ずかしいだろうけど、こういう『母の日』みたいな機会に、おふくろさんに電話して感謝の気持ちを伝えておくのも悪くないぞ」

 俺の事情も知らずに、藤田部長は軽く言ってくれる。

 適当に誤魔化そうか、あるいはきちんと説明するか。ちょっと決めかねたまま、

「いや、俺は……」

 と、とりあえず口を開いたのだが……。

 その時、こちらへ向かって歩いてくる通行人が視界に入る。俺の注意はそちらへ向けられて、藤田部長への返事どころではなくなった。


 年齢は20代後半から30代なかばくらい、髪はボサボサで体型は小太りの青年だった。シャツは赤と黒のチェック柄で、ズボンは青のジーンズ。背中には黒いリュックを背負っている。

 スナックやキャバレーあたりとは縁がなさそうな雰囲気だが、この区画の東端には、漫画やアニメグッズなどを取り扱う専門店も一軒存在している。そちらの利用客の一人だろう。

 いわゆるオタクだからとって、蔑視や差別するつもりはないけれど、この男の場合、問題は……。


くさっ!」

 すれ違った瞬間、思わず俺は叫んでしまった。

 オタクの男は、それほど強烈な、独特の匂いを振りまいていたのだ。

 しかも単なる悪臭ではない。かつて嗅いだことのある匂いであり、忘れられない出来事とも結び付いている匂いだった。


 今から15年前、まだ俺が子供だった頃。

 ちょうど今日と同じく、5月11日の出来事で……。

   

――――――――――――

   

 当時の俺は、六畳一間ろくじょうひとまのアパート暮らし。父親は俺が物心つく前に亡くなり、顔も覚えていないほどだったから、母一人子一人の生活だった。

 パートの掛け持ちで頑張って稼いで、きちんと俺を育ててくれていた母さん。帰りが遅い日も多かったのに、その日は珍しく、夕方から家にいた。


 彼女が台所で夕飯を作っていたら、電話のベルが鳴る。

 俺はその時、宿題を片付けていて、俺の方が電話機に近かったはずだが電話は母さんに任せた。彼女が手で「自分が出るからいいよ、お前は勉強やってなさい」みたいな仕草を示したからだ。

 宿題を続けていると、母さんの電話対応の声が聞こえる。

「もしもし……? えっ!」

 小声だったけれど、大きく驚いたような叫び声。

 思わずそちらを振り向くと、母さんは険しい顔つきになっていた。

 初めて見る表情だ。怒りの形相ぎょうそうとも違う、強張こわばったみたいな、厳しい表情だった。


「……はい、わかりました。いえ、大丈夫です。すぐそちらへ向かいますから」

 表情を変えぬまま応答を続けて、最後にそう言って、彼女は電話を切った。

 そして、俺に対して一言。

「悪いけど、ちょっと出かけてくるね。すぐ戻るから、おとなしく待ってるんだよ」

 俺に背を向けると、箪笥のところへ行き、何やらガサゴソと取り出していた。鞄に詰めていたようだが、ちょうど彼女の体に遮られて見えない角度だったので、一体それが何だったのか俺にはわからない。

 ただ、その母さんが俺の横を通り過ぎた際、強烈な異臭を感じたことだけは、今でもはっきり覚えている。

 しいて言うならば生ゴミみたいな匂いであり、一瞬「母さん、生ゴミ捨てに行くのかな?」と思ったほどだ。

 だが俺の知っているどんな生ゴミよりも強烈で、やったことはないけれど、もしも生ゴミを煮詰めたらこんな感じになるのでは……というくらいの悪臭だった。


 台所の状態は、鍋の火は止めていたが、まな板の上には切りかけの野菜を載せたまま。

 だから本当に「すぐ戻る」つもりだったのだろう。

 しかし予定外の事態が発生したに違いない。

 それ以来、母さんは二度と帰ってくることもなく、行方不明となったのだから。

   

――――――――――――

   

「……いや、確かにオタクくさい格好だけどさ。それで『くさい』は失礼だろう? オタクの体はくさい、っていうのは偏見だぞ」

 先輩警官の言葉で、俺はハッと現実に立ち返る。

 そして、慌てて振り返ると……。


 独特の異臭をはなつ男も、すれ違った直後、こちらに顔を向けていた。

 素直に考えれば、俺の「くさっ!」発言に反応したみたいな状況だが、別に怒っている感じではない。

 むしろ、その顔には不安の色が浮かんでいた。視線は俺たち二人の制服、つまり警察官の格好に向けられているから、警察に対する「不安」の表れだ。

 これは……。

 何かやましいことがあるに違いない!


「君、ちょっといいかな? 背中のリュックの中身、ちょっと見せてほしいんだけど……」

 くさい男に声をかける。

 俺の後ろでは藤田部長が「手当たり次第の職質はめろ、って言ったばかりだろ」とか「オタクだからって、職質する理由にはならんぞ」とか制止の言葉を口にしているが、無視して聞き流す。

 オタクだからではない。強烈な悪臭を――かつて俺の母親が消えた時と同じ匂いを――発しているからこそ、職務質問の対象としているのだ!


「ひっ!」

 くさいオタクは、小さな悲鳴と共に一歩後退あとずさり。

 続いてくるりときびすを返すと、そのまま走って逃げ出してしまう。

「あっ、こら! 待ちなさい!」

 と、慌てて俺も追いかける。


 あくまでも職務質問は、強制ではなく任意だ。法律的には応じる義務はないし、拒否して逃げ出したからといって違法行為には相当しない。

 とはいえ、そんな逃亡が怪しく思われるのは間違いない。俺でなくても「怪しいから職質しよう」と思うレベルであり、だから藤田部長も一緒になって、くさいオタクを追いかけた。

 その結果、彼をつかまえることが出来たし、その際こちらに歯向かってきて大暴れだったおかげで、公務執行妨害も成立。逮捕して連行することが出来たわけだが……。

   

――――――――――――

   

「凄いな、中里。なんでわかったんだ?」

 応援に来てくれた刑事課の連中から驚かれる。

 あのくさいオタクが背負っていたリュックの中身を改めたら、なんと血だらけの包丁が出てきたのだ。

 友人との口論がエスカレートして、刃傷沙汰にんじょうざたに発展。相手に致命傷を与えてしまい怖くなり、現場から逃げ出して街を彷徨さまよっていた……という状況だったらしい。


「いやあ、なんとなく『こいつくさいな』って思って……」

 冗談めかして俺が言えば、ペアを組んでいた藤田部長もそれを肯定する。

「確かにお前、あの時『くさっ!』って言ってたもんな」


 刑事課の人たちには、会話の流れで「犯罪の臭いを嗅ぎ取る」的な意味で受け取られてしまったが、俺としてはすれ違ったあの時、現実的な悪臭を感じ取っていたのだ。

 いや「すれ違ったあの時」どころか、逮捕された後もあの男からは独特の異臭がしている。でも不思議なことに、俺以外は、あの特別な匂いに気づかないらしい。

 ならば、一種の特殊能力だろうか。今まで能力ちからを発揮する機会がないから自分でも知らなかっただけで、俺には特殊能力がそなわっていたのだろうか。

 特殊能力なんて、どうせ信じてもらえないだろうから、誰にも言わないけれど。


 そして、こうして警察官となった今、この「能力ちからを発揮する機会」は、またおとずれる。

 その後も何ヶ月に一回くらいの割合で、パトロール中に同様の悪臭に遭遇。匂いを発する人物を職務質問したところ、それらの者たちは皆、他人ひとの命をあやめた加害者ばかり。

 おかげで俺は「手当たり次第に職質する」という汚名も返上できて、逆に「凶悪犯を適切に職質してつかまえる」と噂されるほどになった。

 警察官としては、なんともありがたい特殊能力なわけだが……。


 加害者が発する匂いを感知する能力ちから

 それについて考えれば考えるほど、俺はしみじみ思ってしまうのだ。

「母さんも同じ匂いだったんだから、ならば事件に巻き込まれたというより、事件を引き起こした結果、消えてしまったんだなあ」

 と。




(「俺を残して消えた母が同じ匂いを振りまいていた」完)

   

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俺を残して消えた母が同じ匂いを振りまいていた 烏川 ハル @haru_karasugawa

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