テンプレ作品はなぜキモいか

ウツロ

第1話 テンプレ作品はなぜキモいか

 テンプレ作品はなぜキモいのか。そのメカニズムについて語ろうと思う。

 が、そのためにはまず、どのような作品がWEBで好まれているか、読まれやすいかについて話す必要がある。


〇どのような作品が読まれるか


 WEB小説はさまざまな形があるけど、読まれやすさには共通点がある。

 いかに読者を気持ちよくさせているかだ。

 ちやほやされたい、愛されたい、必要とされたい、自分には力や価値があったと思いたい。そんな読者の願望を満たしてやるのである。


 WEBで求められているのはストーリーではない。

 安心感や満足感、自己肯定感や劣等感の解消、それらをいかに効率よく摂取できるかが求められている。

 ストーリーはそれを提供するための皿にすぎない。

 だから、物語のベースは知っている形(ナーロッパ)が好ましい。


 読者は快楽成分を求め、サイトの内を飛び回る。

 とうぜん見切りも早い。

 少し匂いを嗅いだだけで蜜が甘くなさそうだと思うと次へ行く。そうやって作品を消費しつづけるのだ。


 しかも、読者は欲しがりである。

 気に入った作品には、良質なストーリーを求めるのだ。

 共感できるキャラクター像、心揺さぶられる演出や苦難に立ち向かう姿、そういった物語の面白さを求める。


 書き手は、この順番を間違ってはいけない。

 あくまで読者が求めているのは自分の気に入った作品に対するストーリーなのであって、良質なストーリーの作品ではない。

 そんなもの、ハナから読んでおらん。読んでない作品のストーリーなど存在しないのも同然なのだ。


 結果、読者の願望を満たしストーリーも良質な作品が書籍化していく。

 もちろんポイントで順位が決まるサイトの構造上、快楽成分全振りの作品も賞を取り書籍化するのだが。


 このような書き手が勘違いしがちな項目は他にもある。

『魅力的な主人公を描かねばならない』だ。

 主人公が魅力的な作品は面白い。まさにその通りである。


 だが、WEBにおいては逆効果である。

 なぜなら多くの読者は主人公に憧れているのではなく、その能力や環境を羨ましく思っているだけだからだ。


 主人公に向けられた好意、感心、尊敬、肯定、見下しからの逆転劇。そういったものを作品を通して摂取しているにすぎない。

 その摂取に魅力的な主人公はジャマなのだ。


 人間は基本的にカスである。

 読者も当然カスである。

 やらねばいけないことを先送りにするし、あれこれ理由をつけて努力をおこたる。

正論を振りかざすが、その正論のために自身は行動をしない。

 作品に出てくる英雄像とは、かけ離れた存在だろう。


 むろん、世の中には立派な人間も存在する。

 だが、このようなオタクカルチャーに立派な人間が流れてくる可能性はかなり低い。

 そもそも、人類全体で見て、立派な人間など少数派である。

 確率論的に言えば、WEB小説の流れをつくっているのは、ほぼカス読者と見て間違いない。


 だから、主人公は魅力的ではいけないのだ。

 自分と重なる部分が極めて少ないからだ。

 魅力的な主人公が活躍したとて、それは他人事でしかない。

 物語から得られる快楽成分が半減してしまう。


 主人公像に求められるのは読者と重なる部分が多いこと。

 地位や能力ではなく、内面が近くなければならない。

 主人公のメンタリティーが読者に近いほど快楽成分を得やすく、遠いほど得にくいというわけだ。


〇どう説得力を持たせるか


 ここで問題になってくるのが読者に近い主人公が、どうやったら物語の中で信頼や期待、好意や尊敬を得られるのかだ。

 カス成分多めの主人公のメンタリティーで、それらを得るのは極めて難しい。


 その方法のひとつに、現代ならではの知識と倫理観がある。

 ナーロッパ(WEB小説にありがちな架空の中世ヨーロッパ)と比べ、現代の知識と倫理観は明らかに高い。

 これならば読者も持ち合わせている。

 現代の知識と倫理観を武器に使い、登場人物から信頼と称賛を得るのである。

 それらを自分事として読者は吸収できる。


 この現代の知識と倫理観。

 転生、転移者だけにとどまらない。現地主人公であっても適用可能である。

 現代に近い考え方と倫理観を持っていれば優れた人物に映るからだ。

 主人公が信頼や期待、好意や尊敬を得るのはむしろ当然。読者は納得しつつ、自分事としても快楽成分を摂取できるのだ。


 だが、これら現代の知識や倫理観。あくまで現代から見て優れているだけである。

 中世ヨーロッパ。人々は貧しく心はすさみ、犯罪は多発。

 深刻な階級の壁があり、罪を罪として裁かれない時代。

 自身の正しさを証明するため、魔女狩りと称し、無実のひとを火あぶりするような倫理観である。

 いくら正しい知識で説こうと、人々は耳など傾けようはずがない。

 現代の倫理観では人は動かないのである。


 それにだ。昔の人は知識はなくとも知恵はある。

 その土地、その文化で生き抜くための知恵がある。

 果たして、生き抜くために得た知恵を、現代の知識で上書きできるだろうか?

 物事というのは設計図どおりにいかない。自然や人の感情がからめばなおのこと。

 机上の空論を振りかざして現場が混乱するのは、現代でもよく見られる光景だ。

 主人公、あるいは読者にとって都合のよすぎる結果や解釈に、ある種の嫌悪感が湧いてくるのである。


 信頼や期待、好意や尊敬を得るための方法その二。

 主人公を有能として描く。

 真に優れた人物ならば信頼や期待、好意や尊敬を得たとて、なんら違和感がない。


 だが、思いだしてほしい。

 主人公は読者に近くなければならないのだ。

 そんな主人公が優れているはずもない。


 ならば、まわりを下げればよい。

 相対的に上なら、優れた主人公でいられるという理論だ。


 読者はコイツ馬鹿だなあと登場人物を見下し優越感に浸れるし、悪意ある行動でソイツが自滅したとてそれ見たことかと爽快感を得られる。

 自滅ではなく、たとえ主人公が手を下そうとも、アホで悪意があるのだから、読者は嫌悪感も罪悪感も覚えなくてすむのである。


〇読者は承認欲、支配欲、性欲、自己顕示欲に飢えている。

 だが、同時にきれいごとも好きである。

 自分はいい人間だと思いたい、あるいは悪い人間だと思われたくないといった心理が働く。

 だから、承認欲、支配欲、性欲、自己顕示欲を満たすための言い訳が必要なのだ。

 客観的には褒められた行為ではないが、そうせざるを得ない理由が求められる。

 そういった言い訳をうまく提供してくれる作品に読者は面白さを感じるのである。


『主人公がワッショイワッショイされると、読者も気持ちよくなる』

 ようはこれである。


 実際やっていることは他者に対する力の押し付けなのだが、そんなことは気づかないし、気づく必要もない。主人公が行えばそれは絶対的な正義なのだ。

 描かれる小さな世界では多くの人がその恩恵を受け、主人公の発生と同時に降ってわいた愚かな権力者たちが、みずからの行いの報いを受ける。

 そんな知能で、どうやってこれまでの体制を維持していたか不思議でしかたがない権力者たちであるが、そんなことはどうでもいいのである。

 彼らは主人公を持ち上げるためだけに存在しているのだから。


 また、大きな力を使ったときや、これまでの体制が崩壊したとき、二次的に被害を受ける善良な人々もいるはずである。

 だが、そんなものは考えないし、考える必要もない。

 小さな世界に描かれなければ、存在しないも同然なのである。


 これら快楽成分を効率的に取る手法――ノウハウが詰まったのがテンプレなのだ。

 中世ヨーロッパ風の世界観で、剣と魔法の世界で、モンスターがいて冒険者ギルドがあってなんてのは、ただの枠に過ぎない。

 テンプレの本質は、いかに無駄なく快楽成分をとれるかであり、俗にいうナーロッパは読者の導入をスムーズにさせるための舞台設定だ。

 快楽成分の摂取方法がテンプレになぞっていれば、舞台がナーロッパである必要はない。


〇読者は自分に欠点があることを承知している


 読者は自身が有能だと信じたい気持ちがある。

 だから、秘められた力が開花したり、能力があるのにも関わらず冷遇され力が発揮できない状況に共感するのである。

 だが、自分は有能ではない、うまくいっていないのには自分にも原因があると読者はどこかで思っている。

 それを思い出させてはいけないのだ。


 ひとつ例を出そう。

 有能が主人公がいた。ギルドに所属する彼は人知れずパーティーを支え、その快進撃は彼なしでは実現しなかった。

 だが、パーティーメンバーはそれを理解せず、主人公に辛くあたり、おまけに邪魔だ脳ナシだとパーティーから追い出すのである。

 追放物の黄金パターンだ。


 しかし――

 こんなもの単に主人公のアピール不足である。

 追放されないように立ち回るのが有能だ。他者とのコミュニケーションを避けた結果が追放劇なのである。


 だが、これを作中で指摘してはいけない。

「俺にも悪い部分があった。コミュニケーションをおこたったからだ」などと、主人公が自分の至らぬ点を反省してはいけないのである。


 主人公の欠点は読者の欠点、自身のコミュ症を思いだして嫌な気持ちになる。

 読者は快楽成分を欲しているのであって、自身の悪い部分を指摘してもらいたいわけではない。


 また、物語としても悪手である。

 相手が100%悪いからこそ、ざまぁを100%楽しめるのだ。

 主人公に落ち度があってはならない。罪悪感や同情心が湧き出てしまうばかりが主人公の正当性も危うくなってしまう。

 主人公の悪い部分の指摘は、そのまま読者の悪い部分の指摘へとつながる。

 コミュ症ゆえの孤立に目をむけさせてはいけない。

 現実逃避こそがテンプレ小説の役割なのだから。


〇テンプレ作品はなぜキモいか


 これまでWEB小説ではいかに主人公と読者を重ねるか記してきた。

 自分が力を発揮できないのは環境のせいである。

 理解されないのは周りの目が曇っているからだ。

 いまは力を発揮できないが、環境ときっかけさえあれば自分も変われるに違いない。

 褒められたい。ちやほやされたい。好意を持たれたい。

 そんな願望や欲望を主人公を通して感じてもらうのである。


 だが、その結果生まれるのはギャップだ。

 作中で語られる主人公の評価と、読者が感じる主人公の評価がかけ離れてしまう。


 主人公を際立たせるためにゆがめられた登場人物の行動や思考。

 世界のなかに主人公がいるのではなく、主人公のために作られた都合のいい世界。

 認知のゆがみによって生まれる主人公への過度な賞賛。

 それら認識のズレが嫌悪感につながる。

 そして、書き手自身がそのゆがみやズレに気がついていない場合、嫌悪感はさらに増大するのだ。


 これら認識のズレは感じない人にとっては理解不能である。

 いくら嫌悪感を伝えようとも、伝わらない。

 読まれない人間の嫉妬だとしか思えない。

 そういったメンタリティーだからこそ、テンプレ作品を疑問なく描けるのである。


〇ゆがみは作中だけで起こるものではない


 ナーロッパかつ快楽成分を盛り込んだ作品>ナーロッパではないが快楽成分を盛り込んだ作品>ナーロッパだが快楽成分を盛り込んでいない作品>ナーロッパでなく快楽成分も盛り込んでいない作品

 こんな風に読まれやすさは決まってくる。

 とうぜん評価(ポイント)もその順番で高くなる。


 結果クオリティーにギャップが生まれる。

 文章、構成、登場人物の作りこみと内容の整合性、これらが優れていれいてもポイントが取れない、むしろ優れているほど評価が低いという逆転現象が起こる。


 読まれている作品は読者の期待に応えているだけだ。それがWEBでは正当な評価なのだが、読まれるメカニズムを理解していない者にとってはそうではない。

「なんでこんな話が評価されるんだ?」

「文章も稚拙、設定も内容も矛盾だらけ」

「こっちの方が面白いのに、なんでだ?」

 こうして、テンプレそのものに対して嫌悪感をいだくようになるのである。


 自身の評価とサイトの評価。

 そのズレがテンプレに対する不快感を生むのだ。


〇書き手であるわたし


 わたしはナーロッパは好きだし、自身でも描いている。

 そんな中でも許容できるテンプレと許容できないテンプレがある。

 読まれたい欲求と、許容できるテンプレの中で試行錯誤するのが自身の創作スタイルだと思っている。


 テンプレに頼らない小説をストイックに描く人を尊敬し、ポイントのためテンプレを描き切る人も尊敬している。

 好んでテンプレを描く人も好きだし、純粋にテンプレを楽しんでいる人も好きである。


 ただ、自己をかえりみない他者批判、他責思考による自己正当化は好きではない。

 また、それらとテンプレが極めて相性がいいのも事実である。

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