第6話

 その後、生安課長は厚岸署の当直長にお礼を言い、念のためと言って私の車に賢人、署のワゴン車に母親を分乗させ、父親には自分で運転して根室署まで来るように指示した。

 出発前に父親の車からジュニアシートを外し、私の車の助手席に設置した。それも生安課長の指示だった。

 帰りの車内で息子の賢人は、助手席で楽しそうに話をした。

「これ、何?」

 後部席の床に隠していた竹刀を指差して聞いた。

「ああ、竹刀だよ、剣道の。剣道って分る?」

「ケンドー?」

「うん、この棒を持って戦うスポーツだよ」

「バチバチレンジャーみたいに?」

「バチバチ、何? うーん、おじさん最近のテレビは分かんないな……」

「レンジャーシリーズ、知ってるでしょ」

「ああ、日曜の朝のだろ。おじさんの子供たちも夢中で観てたよ」

「子供いるの?」

「ああ、男の子2人だよ。もう今は大人だけどな。ところで、賢人くんはお父さんのこと好きか?」

 私は前を走る父親の車を指差しながら聞いた。

「うん、好き」

「遊んでくれるか?」

「遊んでくれるのはときどきだけど、格好良いから、ぼくのお父さんは」

「そうか、仕事は何してるんだ、お父さんは」

「船の会社だよ。1回、乗せてもらったことあるけど、格好良かったよ」

「そうか、船の会社か。恰好良いか……」

 言いながら、うちの息子たちは一度でも私を格好良いと思ったことがあるのだろうかと考えた。

 長男は、大人しく、引っ込み思案なところがあり、なかなか手を焼いた子供だった。しかし、2歳下の次男が兄を慕うようになると、それなりに兄貴らしく、また男らしくなった。中学生くらいからパソコンに興味を持ち始め、今は家庭も持ち、ITエンジニアとしてソフト開発の会社に勤めている。

 次男は、甘えん坊な性格だったが、そのせいか他人から好かれるところがあり、子供のころは妻や兄を頼り、物心付いてからは友達や周囲の大人に囲まれて生きて来た。兄より運動神経は良かったが、特に何もすることはなく、大学でつき合ったガールフレンドのお父さんがやっている食品会社に就職し、そのまま彼女と結婚した。

 剣道については、二人とも幼稚園のときに剣道教室に連れて行ったが、一度見たきりで、やりたいとは言わなかった。また警察官についても、それとなく募集要項などをテーブルに置いてみたりしたものの、二人とも興味を示すことはなかった。

「賢人くんは良いな、格好良いお父さんがいて」

「うん」

 即答した。

 大勢の他人から良いと言われるより、ただ一人の我が子から格好良いと言われる父親の方が羨ましいなと思った。

 あと20分くらいで根室署に着くというところで、私は思い出したように言ってみた。

「あ、そうだ、さっき、剣道って知らないって言ってただろ。1回、見に行ってみたらどうかな。楽しそうにやってる子もいるし、賢人くんが好きかどうかは分からないけど」

「えっ、行ってみようかな。それやったら強くなれる?」

「強いとか弱いとかじゃなくて、体と心が健康になれるんだ。分かる?」

「健康は良いね。行ってみようかな」

「じゃあ、根室警察署に着いたら、先生がいるから聞いてあげようか?」

 全国の警察署等では、少年非行の防止を目指して、警察職員と少年たちの交流を図る様様な活動を行っている。中でも力を入れているのは、警察のお家芸ともいえる剣道と柔道で、大会まで開催して盛り上がっている地域もある。

 根室警察署に着いた。

 私は、賢人の父親が止めた車の横に自分の車を止めた。

 降りて助手席側のドアを開けると、さっきまで話をしていた賢人はシートにもたれて眠っていた。

 父親はそれを抱きかかえ、おぶって署の玄関に歩き出した。

「ぼくのお父さんは格好良いって、言ってたよ。がんばってな」

 私は、息子をおぶった父親の肩を軽く叩いて言った。

「はい」

 彼は清々しい顔で返事をすると、息子と一緒に警察署の中に入って行った。


 その夜は、田辺師範と二人で居酒屋へ行った。

「本当にご苦労様でした。あんなどんでん返しがあるとは驚きました」

「ほんと、浜中町のコンビニにあいつが来たときには、竹刀握りしめて、心臓がバクバクしてたよ」

「あの母ちゃん、今度は被疑者として調べるって言ったら、生安課長に悪態ついて大変だったみたいですよ。しかも中島からひっぱたかれたのは、頬を張られた1発だけで、目の周りや体は自分でわざと叩いてあざを作ってたそうですよ。ほんと、悪い奴ですね」

「でも、手の甲のところが擦りむけてたけど」

「ああ、あれは頭に来て壁を叩いたときの傷です。母ちゃんを叩いたのは平手で1発のみだそうです」

「そうか、でもこの先どうなるんだろうね。母親の方は普段から子供を虐待してたんだから、当然事件になるだろうけど、父親も1回逮捕されてるからね」

「はあ、とりあえず両方とも送致しなければ済まないでしょうね」

「まあ、事件は検事と調整して処理すれば良いけど、問題は今後だよね。あの子のことを最優先に考えないとね」

「本当です。心情的には父親と二人で仲良く暮らしてもらいたいですよね。それで母親がどこかへ消えてくれれば良いんですけど」

「あ、思い出した。あの子、剣道の練習を見たいって言ってたよ。署で少年剣道はやってるんだよね」

「ああ、ええ、週2回、火金でやってますよ。うち、結構強いんですよ。で、大きくなったら、皆、警察の試験を受けてもらいます。今度、事件が一段落したらあの親子にも連絡とってみますよ」

「うん、仮にどこかへ引っ越すとしても、行った先でやってもらいたいな」

「そうなったら、調整しますよ」

「頼むよ」

 その後は、美味しい海鮮料理を心ゆくまで堪能し、夜遅くまで二人で飲み続けた。


 翌朝はゆっくり起きた。

 田辺師範から紹介してもらった旅館に泊まったが、チェックアウトしようとしたら、代金は署長さんからいただいてますからと受け取らなかった。

 すぐに田辺師範に電話をしたが、

「どうせ経費ですよ。あれだけ活躍してもらったんだから当然ですよ。お礼の電話があったことだけ署長に伝えておきますから」

 とのことだったので、ありがたく厚意を受けることにした。


 旅館を出て、駐車場に止めてあった車に乗り込むと、スマホを出して写真を開いた。

 そこには、料理を前にしてにこやかに笑う青山孝子の顔があった。先日、病院で信乃から送信してもらったものだった。5月に私と根室に行った後の写真だ。私とドライブしたときには、動画も静止画もまったく撮らなかった。

「ちょっと、あいさつして行くか……」

 私は、納沙布岬に向けて車を走らせた。

 岬の駐車場に着くと、月曜日ということもあり観光客はまばらだった。

 車を降りて海の見える場所へ行くと、波は荒く、真冬のような冷たい風が吹いていた。海の先には、うっすらと歯舞群島や国後島が見えた。

「今、どの辺にいるのかな」

 孝子の骨は粉にされ、海にまかれた。そして永遠にこの海の中、いろいろなところへ行くことになる。車に乗らなくても、道路が無くても、潮流に乗りさえすればどこへでも行ける。光も届かない深い海の底に行けば、そこはもう時間も何も無い場所で、もしかしたらあの中学生の頃に戻ることもできるかもしれない。

 私はスマホの写真をもう一度見た。

 画面を右へスライドすると、今度は少しぼやけた白黒の孝子が現れた。中学校のアルバムに載っていた写真だ。

「時計、ありがとうございました。ずっと大事に使います」

 左腕を海にかざしながら、小さな声で言ってみた。

 相変わらず、波は騒がしく風は冷たかった。


              ― 了 ―

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