深淵の賢者

 光のない水の中でエルクリッドは身動き一つできずにいた。アセスの声も聴こえず、身体の感覚もなく、ただ沈み行く己を認識し思考だけができる状態で身を委ね続ける。


(あたしは……なんなんだろ……火の夢の器、あたしは……強くなりたい、強く……つよく……たす、けて……)


 心が黒く塗り潰されていく。何も思えない、考えられない、そんな時に何かが引っかかりぐんっと引っ張られエルクリッドは浮上し、そのまま何かに引きずられるように地上へ出た所で目を開き、身体を起こして周囲を見回す。


「ここは何処……?」


 アピスの大穴へ落ちて辿り着いた先は見覚えのない景色広がる場所。湖か海の浜辺であり、夜なのか周囲は薄暗く空に星はなく月も輪郭を残し光を失っていた。

 ふと鈴の音が聴こえてエルクリッドはそちらに振り向き、ぼうっと浮かぶ灯火とそちらへ続くように自分の腕に引っ掛けられてる針と糸に気がつく。


 それを素早くとってカード入れに手をかけながら近づく灯火に照らされ、鈴をつけた灰色の衣を纏う腰を曲げた老人と邂逅する。


「久しぶりにこのアピスの深淵に来る者がいると思えば……火の夢エルドリックの欠片ではないか」


「えと……あたしの名前はエルクリッド、ですけど……?」


 そうではない、と老人は答えながらエルクリッドの様子を見てから背を向けついて来なさいと促し歩き始め、エルクリッドもとりあえず敵ではないと感じて後をついていく。


「えと……あの、あなたは……」


「深淵の賢者ヴルム。この場所を管理し、巫女の一族が導いた者の案内人といったところだ」


 老人の名前はエルクリッドも記憶にあった。この世であってこの世でない場所にいる賢者の名前、それがここでありヴルムだと。

 アピスの大穴から続く場所がこんな所とは思わず周囲を見回し、ふと、暗闇の中を何かが整列して進むのに気がつき目を向けるもヴルムがあまり見ない方がいいと促し、エルクリッドも素直に従い前へ歩き進む。


「ここは魂が然るべき場所へ向かう場所、あれはこの世界で生命を終えた者達の列……以前も多かったが、今再び増えているのを見ると火の夢エルドリックの影響はまだあると見える」


 再びその名を口にした事でエルクリッドは苦笑しつつ、その名に触れ言葉に出す。


「あの、あたしはエルクリッド、ですよ? エルドリックって……」


「火の夢の真の名前、それがエルドリックと言えば伝わるか。ここはエタリラとは異なる世界故、その名を口にしても問題はない」


 火の夢の名前が出た事でエルクリッドは目を大きくし、ぞわっとする感覚が体を包み込む気がした。

 自分の中に眠るもの、力の根源、母スバルが何を思いネビュラと協力したのか、自分に何をさせようというのか、不安が強くなり足も止まってしまう。


「あたしは……」


「とにかくついて来なさい。そのうち落ち着くだろう」


 淡々と導くヴルムは心の揺らぎを理解しているのをエルクリッドは感じ、ひとまず前へ進み彼と共にさらに奥へと進んで行く。



ーー


 寄せては返す波音が聞こえなくなる頃、周囲の闇は深まりヴルムの手にするランタンの灯り以外の光はない。

 

 何かが隣を歩いて行くのだけは感じられて少しエルクリッドは怖さを感じながらも、沈黙が続く事に耐えかねて口を開く。


「あの! 何処へ向かってるんです?」


「歩いてるだけだ」


 一瞬その答えに体が硬直するエルクリッドだが、すぐに気を取り直しヴルムの後についていき、再び沈黙が続く中を歩き進む。


(何してんだろあたし……こんな事、してる暇ないのに……)


 ネビュラを目前にして取り逃がしたこと、ザキラに完全にあしらわれた挙げ句また暴走しかけたこと、それでいて渇望は強くなってしまっていること、考える程に自分の無力さを覚える。

 強くなりたいと願う程に自分の中にある火の夢、エルドリックの力もまた強まる。それは正しいのか、制御できるのか、答えは見えない。


 エルクリッドが思案し俯き歩く速度が遅くなるとヴルムもまたそれに合わせ、そしてある事を語り始める。かつての災厄の、その一端を。


火の夢エルドリックが復活した時、かの王は憎悪に囚われたままでいた。何故そこまで世界を憎んだのかと、ただ一人疑問に思ったリスナーが最終的に討ち倒しはしたが、それはあくまで王の肉体に宿る残留思念に過ぎなかった」


「そのリスナーって……クロス、ってリスナーですか?」


 あぁ、と答えたヴルムの話を聞いて、エルクリッドはふと師クロスの元で暮らしていた時に彼があまり昔話をしなかった事や、彼の妻ルイも大きな事件に関わったとは言ったがそれを誇張する事はなかったと思い出す。

 謙虚さや彼らが静かに暮らしたいから表にしたくないのだと今まで思っていたが、ヴルムから聞いた話から、後悔もあったのだと悟れた。

 

「リスナーとは、声を聴く者だ。生命あるもの、心あるものの声を聴き心通わせる者……火の夢エルドリックの真意は今尚わからず、そしてまた、それを求めたが故に過ちに手を染めた者もいる」


「過ち……」


 エルクリッドの脳裏に、シリウスが語った母スバルの事が浮かぶ。大罪人であると。

 何となくではあったが、母スバルの真意はそこにあったのではないかと思えた事や、今自分がいる場所が死者が通る場所ならばとある事を思いついて口に出しかけたが、その前にヴルムが言葉を紡ぐ。


「死人に口なし、本来生きている者は死者から何かを聞き出す事は禁忌である。その行為は生命が生まれ、死に、そして託され紡がれる事への否定も同じ……だから自分がここを管理し、アピスの大穴も許可を得たものだけが通り抜けられるようにとしているのだ」


 諭された気がした。エルクリッドは自分が思い至ったものを改めつつ、少しずつ髪の色が赤へ戻るのにも気づかないまま前へ目を向ける。


「あたしは……どうすればいいんですか?」


「生きるという事に答えはない、だが生きているという事は笑い、喜び、怒り、悲しみ、数多の事を思い悩みながら進みながら他の者と共有し合う事や、反発し争う事、それらを繰り返しながら歩く事なのは間違いない」


「よくわかりません……でも……」


「今は歩くといい、急ぎ走る事も大切ではあるが君に必要なのは落ち着く事……だからここに導かれた」


 ヴルムが歩く速さを戻し、エルクリッドも後へ続きながら彼の言葉をゆっくり紐解いていく。


 落ち着く事、リスナーは常に冷静であるべしという師の教えと重なるような気がしながら、エルクリッドは闇を歩き進む。



 

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