DANJON HAS NO LIMIT
三十二十一十
第1話 生きる道
深く息を吸って、大きく吐き出す。
大丈夫。何も恐れることなんてない。
そう思いながら姉に持たされたほんの少しの荷物を握り締めて真っ暗な夜道をまた一歩前に踏み出す。
それでも、怖さが和らぐなんてことはない。
親の目を掻い潜るためには親が寝ている夜を狙うのは仕方がないことなのだが、それでも光の入らない場所は怖い。
骨折でしばらく学校を休んでから学校に戻ったら、暗い物置のような場所に押し込まれて何度も殴られた。
そして、帰ってきたらそんな姿を外に見せるなと親に怒鳴られて、そのうち全く外に出なくなった。
当時、まだ小さかったからまともに暗い夜道なんて歩いたこともない。
だから、ほとんど何も見えない場所はあの時の場所だけ。
足を進めるたびにあの時の記憶がフラッシュバックして大きく息を呑む。
一歩踏み出した時に大きく呑んだ息を少しずつ、丁寧に吐き出して息を整える。
そして、また覚悟を決めて一歩踏み出す。
これを俺は永遠に繰り返している。
「大丈夫。恐れることなんてない」
俺の耳に入ってくるのは、俺の言葉じゃない。
たった一人の、俺の味方の言葉。
この言葉で、俺は激しく躊躇いながらも次の一歩が踏み出せる。
「晴空は昼間ならドラキュラにだって勝てちゃうんだから。夜だからって怖がるようなものがあるわけない」
「姉さん、それはちょっと無理があると思う」
暗い夜道の中でも俺の心を鬱陶しいくらいに照らし続けて、辛そうな顔なんて俺に見せない俺の姉。
俺の二つ上なんてやりたい事はいくらでもあるだろうに、それを全て捨てて、それでも自分のことより俺の心配が勝ってしまうような一纏めに言ってしまえばお人好しすぎるような人だ。
辛そうな顔くらい弟の俺に見せてもらわないと困る。あの親にそんな面見せられないだろうし、じゃあ誰に見せるんだよって話だ。
なのに、この前も俺がそのことを言ったら一番辛いのはお前なくせに生意気ななんて言われて、ほんとにどうしようもない。
そんなことを考えていたら自然と笑みが溢れてきて、少し気が楽になった。
次の一歩が、自然にとまでは言わないまでも躊躇なく出てくるようになった。
目の前の景色が少し明るくなる。
この時間帯にも関わらず多くの車が行き交うこの太い道を谷町筋と言うらしい。
渡ると、急な坂が目の前に現れた。
「左に見えるのは大阪星光学院っていう前言ったような中高一貫校だ。晴空みたいな賢い子は入ることができて、姉さんみたいなバカには入れないように難しい問題を解かされるんだ。まあここは男子しか入れない特殊な学校だからそもそも姉さんには入れないわけだが」
俺の姉はいつもこうやって俺を持ち上げようとする。
自分の子供が天才だと信じて疑わないように、俺の姉は自分の弟を天才だと信じて疑わない。バカ姉だ。
ため息をつきながら俺は一歩ずつ足を前へ出す。
坂は、下る方向への力がかかる。
重力を分解すると、坂に垂直な力と、坂に並行な下る方向への力に分かれて、坂に垂直な力は坂の垂直抗力によって相殺されて、坂に並行な下る方向への力が働く。
これは高校物理の範囲で、まだ中学生だったはずの俺には本来不要な知識だが、姉が教えてくれた。
こういうのを覚えたりするたびに俺は天才だと思われて行くわけだが、高二の時点で中三の俺に高校物理の知識を植え付ける方が難しいのではないだろうか。
谷町筋ほどではないものの太い道に突き当たって、今度は渡ることなく左折する。
確か、この道は松屋町筋と呼んだはずだ。
こっちの道は車通りは少ないが、夜でもしっかりと街灯は灯っているから怖さはかなり薄れる。
しばらく歩いたところで、目的地が見えた。
周りは緑の多い公園で、あまり見えないものの汚い池の上に赤い橋がかかっている。
そして、その南の広場にはそこまで高くはないものの、四方を覆っていて威圧感のある石塀。
その塀が少し空いていて、その中にあるのが、天王寺ダンジョン。
成人したら親に捨てられることが確定している俺にとって、未成年でも親の同意なしに働くことのできるここは唯一の生きる道。
本来なら児童養護施設なのだろうが、この限界突破した不況の中で、児童養護施設なんてどこも受け入れるほどの金はない。
この終末世界のような不況の中、日本が一縷の望みをかけたのがダンジョンだ。
数十年前、世界各地の地面に穴が開き学者にも理解できない謎の構造が出来上がった。
その見た目と多くの謎から、人々はこれをダンジョンと呼んだ。
最初は厳重な警備が敷かれたが、特に何も人間に利益や害をもたらすこともなく、日本を除き、その穴は埋め立てて、閉じられた。
しかし、日本では一つのダンジョンから火災が発生したことにより、燃料となるものがダンジョン内にあると判断され、地下資源の乏しい日本はいち早く準備を整え、探索を開始した。
また、本来なら親の同意なしに働くことのできない18歳未満でも労働できるように、ここでの労働は契約にあたらないという特例法ができた。
ダンジョンを探索した人間は、自分たちで測量して、その地図を作る。
測量して、地図を作るための器具は探索者事務所という探索を円滑に進めるための場所で用意されていて、探索者は探索時に許可を得てそれを借りることが可能である。
そして、その作った地図を探索者事務所に買い取ってもらうことでお金を得るという、パチンコのような法律の抜け方だ。
俺が知っているのはそこまでだ。ほとんど姉に教えてもらった。
だから、実際の探索がどのようなものなのかは俺にはわからない。
外からの写真もあるのだが、探索者たちが地面にテントを張って寝ている写真くらいしか撮られていないのだ。
実際に探索している人に話を聞けばと思うかもしれないが、なぜか探索している人は外に出てこないのだ。出られないという噂もある。
でも、とにかく俺が生きることのできる場所なのは確かだ。
「じゃあ、晴空とはここでお別れだな」
と暗くてよく見えない中で少し感傷的な声になった姉が言う。
姉はまだ成人していないから、一緒に来たところで捜索されて二人とも親の家に閉じ込められるなんてケースだって考えられないわけではない。
成人するまで親に俺のことを誤魔化し続けるのが最善手なのは明白だ。
でも、絶対に俺の姉はそれで親に拷問じみたことをされることになる。
その姿を想像すると、こっちまで辛くなってきて、思わず涙がこぼれてきた。
「泣くなよ。クソみたいな親にあんなことされたって泣かなかったくせに」
なんで俺にしてくれたことにそんなに気付かないんだよ。
俺はあんだけ辛いことだって姉さんが励ましてくれたから乗り切ってこれたんだよ。
それを姉さんは誰の励ましもなく乗り切らないといけないってのに、どうして当の本人はヘラヘラできるんだよ。
こんな思いは、どれだけ自分の中に浮かんでも言葉になることはない。
言ったら、そんなこと言うなと一蹴するような人だから。
俺は姉の精神的な助けになることなんて言えない。
だから、俺は姉が肉体的に苦しんでいる時に、何も言わずとも手を差し伸べることができるよう、あの石塀の向こう側で全力で生きることしかできない。
今俺が言えるのはこれだけだ。
「どんなことされるか分からないけど、いつか絶対に助けに行くから」
「助けに来なくたって、晴空の頑張ってるところ見るだけでも十分助けになるから」
そう笑顔で言う姉に、そうじゃねえよと思いながら俺は姉に背を向けて歩き出す。
後悔だって妬みだってもちろんあるけれど、そんなもの気にしてられない。
俺が生きるのはこの閉ざされた石塀の中だ。
覚悟を決めて、俺は中へ通づる門へ入っていった。
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