坂東麗子

 坂東麗子は市内を走る地方私鉄、星川電鉄の社長の娘である。


 当時の星川電鉄は復興の波にうまく乗ったことで、業績向上著しかった。姫沼地区に工場が多く建てられた際、現代ではトラック輸送に置き換えられているが、当時は原料や製品を輸送するための貨物列車を走らせていた。その売上は旅客輸送よりもはるかに大きいものだったという。急成長著しい企業であったが、かなり悪い言葉を使えば成金企業ともいえた。


 しかし社長の娘たる麗子のたたずまいは成金にありがちな品の無さとは程遠く、古くからの由緒ある良家の娘のようであり、美貌も相まって所作の一つ一つが洗練されていた。


 優れていたのは外面だけではない。


「坂東さん、十八ページの一行目から四行目まで読みなさい」


 岡部先生が英語のテキストを読むよう命じると、麗子は椅子の音を立てずにゆっくりと立ち上がった。


「He slightly raised his right hand, bound at the wrist by the shining "bracelet" to the left one of his companion……」


 ネイティブと遜色ない発音の良さに、めったに褒めない岡部先生も「素晴らしい!」と絶賛した。


「相当英語を勉強してきているわね」

「ありがとうございます」

「皆さんも坂東さんを見習って、しっかり勉強するのですよ」


 厳格な岡部先生はすっかりご機嫌になり、いつものような嵐はやってこなかった。

 

 さらに授業後、日直が黒板の上に書かれた文字を消そうとして背伸びしても届かなかったところに背の高い麗子がやってきて、「お手伝いしますわ」と黒板消しを取り、きれいに文字を消していった。


「ありがとう……」

「いえ、どういたしまして」


 日直の生徒は赤ら顔になった。


 麗子はたちまち学園内で人気の高い生徒になった。同級生たちからは慕われ、中等部の生徒からは麗子お姉さまと敬われ、自然と彼女の周りには取り巻きができた。


 その影響は生徒寮の中にまで及んだ。


「な、何だこれ!?」


 河邑きくが帰寮すると、いつの間にか玄関の姿見の側に麗子のスケッチ画が貼られているではないか。しかも写真かと見紛うほど写実的である。


「いかがですか? 麗子お姉さまのご尊顔は」


 中等部三年生の寮生、河合富子かわいとみこが声をかけてきた。


「これ、河合さんが描いたの……?」

「違います。美術の先生が描いていたのをお裾分けしてもらったんです」

「お裾分け?」

「先生も麗子お姉さまがお気に入りで、時間があればずっとお姉さまを描いているそうです」


 どうやら教師までも虜にしているらしい。あの厳格な岡部先生すら褒めるぐらいだから、他の教師からも気に入られてもおかしくはない。だからといって肖像画を描くのはやり過ぎだ、ときくは呆れて果てた。


「これでお姉さまに身だしなみを整えてもらっている気分になれますね」


 恍惚の表情を浮かべる富子を見て、きくはもう物申す気力も無かった。


 *


「寮の子たちはみんな麗子お姉さま、麗子お姉さまで正直うんざりだよ」


 翌朝の授業前、きくは多々良美千代につい愚痴をこぼしてしまった。


「あら? おきくさんもヤキモチ妬くのね」

「ヤキモチじゃないよ。坂東さんに入れ込む気持ちはわかる。顔よし頭よし性格よしのお嬢様だからね。でも、入れ込みすぎて身の回りのことをおろそかにしちゃダメでしょ」


 昨晩、就寝中に騒がしい音がして目が覚めたきくが見回りに行ったところ、富子の部屋に数人が集まって談話していた。他にもお裾分けされたものがあったのだろう、みんな麗子の肖像画を手にしていた。きくがカミナリを落としたのは言うまでもない。


「みっちゃんも若先生とやらに入れ込みすぎちゃダメだよ」

「私は入れ込んでも夜ふかししないもん。すぐ眠くなっちゃうし」

「いや、そういうことじゃなくてね」


 河邑さん、と呼ぶ声がした。


「坂東さん。どうしたの?」

「申し訳ないけれど、鉛筆を一本貸していただけるかしら? 筆箱を家に忘れてきてしまったの」

「ありゃ、坂東さんでも忘れ物するんだな。いいよー」


 きくは自分の筆箱から一本の鉛筆を取り出して麗子に渡した。


「ありがとう。前から思っていたけれど、削り方がとても綺麗ね」

「へ?」

「大切に使わせて頂くわ」


 ぺこり、と頭を下げて自分の席に着いた。彼女の席はきくの席より前方にある。授業中に後ろを振り返りでもしない限り、きくの鉛筆をよく見る機会など無いはずだが。


「もしかしてあたし、あの子に結構見られてんのかな」

「お近づきになれる良い機会じゃない?」

「そういうつもりはないよ」


 周りと違い、きくは麗子とそれほど会話を交わしていない。彼女を全く特別視していないわけではないが、取り巻きに加わりたいという気持ちまでは抱いておらず、みんなとは一歩下がった位置にいた。それでもきくの方は自分の鉛筆のことまで知っていたのだ。


 午前中の授業が終わった時点で、麗子は鉛筆を返しにきた。


「もういいの?」

「午後は音楽と体育でしょ。思っていた通り、河邑さんの鉛筆は書きやすかったわ。ありがとう」


 まぶしい笑顔で言われて、きくは照れ笑いを浮かべた。


「ま、また忘れたら貸してあげるよ」

「そのときはよろしくね」


 麗子は教室を出ていく。クラスメートの中から「羨ましいなあ」と声がした。


「羨ましい?」

「あんなニッコリした笑顔を向けられたの、おきくさんが初めてじゃない?」


 言われてみて、今まで彼女の心からの笑顔はほとんど見ていないことに気づいた。取り巻きとの会話で愛想笑いを浮かべていることはあったが、目は口ほど笑っていなかった。


 *


 きくの昼食は寮で握った雑穀のおにぎり二個とたくあん二切れと相場が決まっている。短い時間で平らげたきくは、畑の様子を見にいくことにした。


 当時の学園内には敷地内に大きな畑があり、そこで育てられた野菜は生徒寮の食事に提供されていた。主に寮生、ときどき教職員も協力して面倒を見てくれているが、管理責任者は寮監のきくである。元豪農の娘ゆえに作物栽培のノウハウはある程度身についていたので、その目線で畑をチェックしていく。前の休日に寮生総出で雑草取りをしたから見栄えがとても良く、青々した作物の葉だけが土から顔を覗かせている。


「よーし、いい感じに育ってるね」


 野菜を使った献立が次々と頭に思い浮かんできた。


 満足して帰ろうしたときだった。畑の側にある掘っ立て小屋からゴトンゴトン、と音がしたのは。この小屋は農具置き場に使われている。誰か畑仕事をしようとしているのかな、ときくは思ったが、「んん……」という女性の苦しそうな声も聞こえてきた。


 何か悪い予感がしたきくは、踵を返して小屋の戸を開けた。


「どうした……ひゃああああっ!!??」


 悲鳴を上げたのはきくだけではなかった。小屋の中に寮生の河合富子がいて、彼女はきくを見るなり目をひん剥いて、声にならない悲鳴を上げた。


 声が出なかったのはその場にもう一人いた人物、坂東麗子が富子の唇を自分の唇で塞いでいたからである。

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