第五憑 韜晦
恐る恐る階段を降り、ドアモニターを覗き込む。
映ったのは、制服姿の透平だった。
思わず息をのむ。
モニター越しに話しかける声が震えないように努めながら、俺は訊いた。
「……なに」
カメラ越しに声をかけると、透平は思ったよりも普通の調子で返した。
「ほら、中間の対策プリント。渡そうと思って。」
拍子抜けするような理由。
流石に追い返すわけにはいかない。仕方なく鍵を外し、重たい扉を開いた。
チェーンロックを外して玄関を開けると、むっとするような夕方の熱気が入り込んでくる。ひぐらしの声が、夏の到来を待たずしてちりちりと鳴いている。夕焼けの橙に、透平のシルエットが縁どられている。少し汗ばんだ灰髪が、光を受けて煌めいていた。
「悪いな、わざわざ」
「別に。家近いしさ」
俺はなんとなく胸の奥が揺らぐのを感じながら、それに、透平の気持ちがどうしても気になってしまったから、彼を家に上げた。
台所で麦茶を注ぎながらも、やはり落ち着かない。透平は今、俺の部屋で待っている。
グラスに氷を落とす音がやけに大きく響き、手が少し震える。今なにを考えているのか、どんな言葉を口にするのか。不安で胸が詰まる。
ほかの皆は、俺のところへ来ない。怖がって、避けて。透平も、結局は同じなのか。
グラスを二つ持って戻ると、透平は机にプリントを置き、窓の外をぼんやり見ていた。
「はい、麦茶」
「ありがとう、プリント、ここに置いとくね」
「ああ……」
「中間の範囲は知ってるんだっけ」
「まあ、グループLINEに貼ってあったし」
会話はぎこちなくも続く。だが胸の奥のざらつきは消えない。
つい口が滑った。
「……なんで透平が来たん」
思ったより刺々しい響きになってしまった。自分でも嫌になる。
透平は肩をすくめるだけで、さらりと答えた。
「いや、席隣だし。家も近めだし」
その自然さに逆に戸惑う。俺は慌てて話題を切り替えた。
「……そういや、お前、俺の部屋入るの初めてか」
「うん」
透平は俺の言葉にあまり反応せず、じっとこちらを見た。
その目が合った瞬間、心臓が強く跳ねた。
いつも逸らしていたくせに。こんなふうに真っ直ぐ見てきたこと、あっただろうか。果たしてこんな奴だっただろうか。
「……別に、風邪じゃないんでしょ」
俺は口をつぐみ、誤魔化そうとした。
「いや、ほんとに体調悪くて――」
しかし、言い切る前に透平が重ねた。
「それに、その服。暑いでしょ」
視線は、俺の長袖のスウェットに落ちた。
喉が詰まる。
ああ、なんだか転校初日と逆だな。俺ばかりが話して、彼が恐る恐る応じていたあの日。
気づけば、口から言葉が出ていた。
「……なぁ、俺のこと、気持ち悪くない?」
透平は眉を動かしもせず、「どこが」と答えた。その自然さに、逆に頭が真っ白になる。
逡巡の末、俺は覚悟を決めた。
「ちょっと……見てくれ」
ゆっくりとスウェットを脱ぐ。ノースリーブのシャツとトランクスだけになった身体を晒す。腕や脚は部活で中学の時に鍛えた筋肉がまだ程よく残っている。けれどそこには――肌に馴染んでいるような“目”の他に、虫刺されのような赤いふくらみが三つ。そこがぱっくりと裂け、瞬きを繰り返した。
透平は一瞬、目を見開いた。だがすぐに表情を整えた。
「……それ、どうしたの。って聞いていいの」
俺は一呼吸置き、吐き出すように言った。
「俺さ……」
気づけば、止まらなかった。
小四の冬、くだらないおもちゃを盗んだ。
中二のとき、漫画を万引きして、結局部活をやめた。
盗みをするたびに、“目”が増えた。
ずっと胸の奥に棘みたいに刺さっていて、吐き出したら、もう止まらなかった。
そして今回、石倉の参考書がなくなったとき――また増えた。
あの冬からずっと続いてきた息苦しさが、滔々と、全部流れ出た。
一気に喋り終え、はっとした。
ペラペラと、誰にも話したことのないことを全部。
惨めで恥ずかしくて、思わず顔を背けた。
「……ごめん、今の、忘れてくれ」
だが透平は静かに問いかけた。
「それ、誰かに言ったことあるの」
「……初めて」
彼は動きを止め、俺をまっすぐ見つめた。その瞳に、侮蔑も、不審もない。だが――瞳の奥に、測りかねる光が一瞬揺らいだ、気がした。
透平が口を開く。
「石倉の参考書のやつ、あれ、勘違いだったんでしょ」
「……わからない。無意識にやってたんかもしれんし。そもそも借りた記憶も、ない」
透平は一瞬だけ口をつぐんだ。けれど視線を外さずに、ぐっと身を乗り出した。
「……学校の人たちは別に何も言ってない。少なくとも、僕は疑わない。誰が何を言っても、僕は見捨てない。盗みが駄目なのは当たり前だけど、それ以上に……お前がここまで苦しんできたことの方が、僕には大事だから」
彼の声はまっすぐで、重かった。
初めて、自分の全てを語り、それを受け止められた。目の奥がじわりと滲む。言葉にならない沈黙のあと、自嘲めいた笑みが漏れた。
「……なんか、男同士で。一人だけ下着姿で泣きそうになって、何やってんだか」
そう言いながら笑ったのに、なぜか居心地は悪くなかった。
鼻をすすりながら笑い、服を着直す。
「……明日から、学校行くわ」
新しい“目”の痛みは、いつのまにか消えていた。
帰り際、透平が鞄から一枚の大学パンフレットを取り出した。
「改めてだけど、一緒に実教目指さない? 向こうならもっと自由だし、ちょっと、なんか……ルームシェア、とかもしてみたいし」
少し言いよどむその姿に、胸が軽くなる。
「ああ……いいな。それ」
信じられる人ができるって、こんなにも嬉しいことなんだと思った。
透平の視線に宿る感情の正体は、結局わからないままだったけれど――。
Be To 〜妖怪の憑く世界〜 Syamo. @S_yamo
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