第4話 魂ごと喰らう、冬眠前の雪嶺熊

 あの衝撃的なレバーを味わってから、数週間が過ぎた。 私と猟師――私が勝手に「師匠」と呼んでいる――との共同生活は、それなりに板についてきた。といっても、会話は一日に三言あれば多い方。彼は黙々と狩りをし、私はアイテムボックスから出した調味料や食材で日々の食事に彩りを添える。それだけ。


 でも、それで十分だった。言葉なんてなくても、一緒に飯を食えば、なんとなく心が通じる。師匠が仕留めた兎のシチューに私が隠し味で醤油を垂らしたり、私が焼いたパンに彼が森鹿のレバーパテを添えてくれたり。そんな静かで満たされた日々が、心地よかった。


 そんなある日、外が吹雪で荒れ狂う朝、師匠がポツリと言った。


「本物を、食わせてやる」


 彼の目に宿るのは、いつになく真剣な光。どうやら、今日の狩りは今までとはレベルが違うらしい。もちろん、答えは「イエス」以外にあり得ない!


 吹雪の森は、まさに牙を剥く大自然そのものだった。視界は真っ白、耳元では風が獣のように唸っている。そんな中を、師匠はまるで散歩でもするかのように平然と進んでいく。


「この風の匂い……近いな」


「へ? 匂い?」


 私には凍える空気の匂いしかしないけど!?


「雪に残った足跡が新しい。爪痕の深さからして、相当な大物だ。しかも、歩幅から見て若い雌……子を産んだことのない処女熊だな。十分に成長しているのに繁殖経験がない個体は、肉質はきめ細かく、脂の質も格別。まさに『幻の極上肉』だ」


 常人にはただの雪の凹みにしか見えないものから、そこまで読み取るなんて。もう超能力の域だ。


 そして、ついに私たちは『ソレ』と対峙した。 森の木々が小さく見えるほどの、巨大な雪嶺熊(セツレイグマ)。 銀色の毛を逆立て、地響きのような唸り声を上げる姿は、森の主と呼ぶにふさわしい圧倒的な迫力。やばい、こいつは戦車じゃなくて、移動要塞だ。


「リナ、下がるな。だが、いつでも動けるようにしておけ」


 師匠の低い声が飛ぶ。彼が弓を構えると、周囲の空気がピンと張り詰めた。 熊が咆哮と共に突進してくる! 早い! 師匠はひらりとそれを躱し、流れるような動きで矢を放つ。でも、分厚い脂肪と筋肉に阻まれて、矢は致命傷には至らない。


「グルオオォォッ!」


 怒り狂った熊の爪が、巨木をバターのように引き裂く。掠っただけでミンチにされちゃう! 何度も矢を放つ師匠。その動きは神業じみているけれど、熊の生命力はそれを上回っていた。 まずい、このままじゃジリ貧だ!


「師匠!」


 私は叫ぶと同時に、アイテムボックスからとっておきの閃光弾を取り出し、熊の足元めがけて投げつけた! パンッ! と甲高い破裂音と共に、目が眩むほどの光が炸裂する。


「グッ!?」


 一瞬、熊の動きが止まった。 その千載一遇の好機を、師匠が見逃すはずがない。


「……助かる」


 呟きと共に放たれた最後の一矢は、吹雪を切り裂く一筋の光となり、熊の眉間、その一点へと正確に吸い込まれていった。


 巨体が、ゆっくりと、地響きを立てて雪原に沈む。 静寂が森を支配する中、私と師匠は、倒れた森の主を前に、荒い息を整えていた。


 小屋に戻った私たちは、祝宴の準備を始めた。 師匠が切り出したのは、バラ肉の一番いいところ。美しいサシが入った赤身と、純白の脂身の層が、見事なコントラストを描いている。師匠がそれを惜しげもなく厚切りにし、暖炉で熱した鉄板の上に乗せると――


 ジュウウウゥゥゥゥッッ!!


 小屋中に、魂を揺さぶるような音と香りが満ち満ちていく! 滴り落ちた脂が炎に触れて、香ばしい煙が立ち上る。もう、この匂いだけでワイン一瓶いけちゃう!


「師匠、これだけじゃもったいない! ちょっと手を加えるわね!」


 私は森で摘んでおいた木苺を小鍋に入れ、赤ワインと蜂蜜で煮詰める。そこへアイテムボックスから取り出した、古都ミスラールの地下蔵で百年熟成された『黄金酢』を数滴。最後にジュニパーベリーを軽く潰して加えて、特製ソースの完成!


 焼き上がった肉は、表面がカリッとキツネ色で、中は美しいロゼピンク。 まずはシンプルに岩塩だけで一口。


(……っ! なに、この脂!?)


 甘い。砂糖菓子みたいに、甘い。 噛んだ瞬間、じゅわっと口の中に溢れ出す脂は、まったくしつこくなく、すぅっと舌の上で溶けていく。そして、赤身の滋味深い、濃い、濃い肉の味が後から追いかけてくる! きめ細かな肉質、とろける脂、そして微かに香る乳の匂い。ああ、ダメだ。美味しすぎて、語彙力が溶けていく……。


 次に、特製の木苺ソースをたっぷりつけて。 ……完璧! パーフェクト! ソースの酸味が濃厚な脂をきゅっと引き締め、果実の香りが肉の風味をさらに一段階上へと引き上げる!!


合わせるのは、もちろんフルボディの赤ワイン。北方の修道院で僧侶たちが丹精込めて醸造した『聖血の雫』。力強い肉の味に負けない、どっしりとした渋みとコクが、口の中をリセットして、次の一口を猛烈にねだって来る。


 もう、会話なんてなかった。


 二人とも、夢中で肉を頬張り、ワインを呷る。 と、その時。師匠が、自分の皿に乗っていた一番分厚くて美味そうな一切れを、私の皿に黙って乗せてくれた。


「え?」


 彼は何も言わず、また自分の肉にかぶりつくだけ。 でも、その不器用な仕草だけで、十分だった。言葉はなくても、最高の食事は、人と人の心を繋ぐんだ。


 満腹のお腹をさすり、燃える暖炉の火を見つめながら、私はぼんやりと考えていた。 そういえば、今日の狩りでも、師匠の矢は不可解な動きをしていた。熊の爪を避けるように、僅かに軌道を変えたように見えた。 あれは、ただの『技術』なんだろうか? まるで、矢に意志が宿っているみたい……。


 無口で、謎めいていて、とんでもない腕を持つ猟師。 彼の正体は、いったい何なのだろう。 私の胸の中に、食欲とは別の、新しい好奇心が芽生え始めていた。

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