第3話 命の味は、五分しかもたない

 翌朝、私が目を覚ました時、小屋の主はすでに出発の準備を終えていた。 おはよう、の一言もない。ただ、弓を手に戸口に立つ彼は、無言で私を振り返った。その鋭い視線が雄弁に語っている。『行くぞ』と。


 ……はいはい、行きますよ! 慌てて身支度を整え、彼の後を追う。


 森に入った瞬間、彼の纏う空気が変わった。昨日までの「ただの無口な男」じゃない。森の気配を読み、風の声を聴き、大地と一体化する、まさに『狩人』の顔だ。 音もなく、獣のようにしなやかに進む彼に、私は必死でついていく。息が切れ、足はガクガク。完全にお荷物だ、私。


「はぁ…はぁ…、ちょ、ちょっと待……」


 言いかけた言葉を飲み込んだ。彼がピタリと足を止め、スッと弓を構えたからだ。 視線の先、木々の合間に美しい鹿の姿が見えた。陽光を浴びて輝く毛並みを持つ、森鹿(シンカ)だ。 でも、距離はかなりあるし、枝葉が邪魔で矢の通り道がない。あれを射抜くなんて、いくら達人でも無理じゃ……?


(あー! もう少し右! あの太い枝さえなければ、絶好のチャンスなのに!)


 私が心の中で歯噛みした、まさにその瞬間だった。 ヒュン、と弦が鳴る。放たれた矢は、まるで生き物のように滑らかな軌道を描き――あろうことか、邪魔な枝を避けるようにカーブして、森鹿の首筋に深々と突き刺さった。 森鹿は声も上げられず、その場に崩れ落ちる。


「…………え?」


 今、矢が、曲がった? いやいや、まさか。目の錯覚? 枝に当たって偶然軌道が変わったとか? 呆然とする私を尻目に、猟師はすでに獲物へと駆け寄っていた。その動きには一切の無駄がない。ナイフを抜き、祈るように短く黙祷を捧げると、神速で解体作業を始める。血抜きをし、皮を剥ぎ、内臓を取り出すまで、ほんの数分の出来事だった。


 やがて彼は、まだほのかに湯気が立つ、艶やかな小豆色の塊を切り出すと、無造作にこちらへ差し出した。


「……食ってみろ。生では食えるのは、今この時だけだ」


 本日初めて聞いた、彼の言葉。ぶっきらぼうだけど、その瞳には「契約を果たせ」という圧があった。差し出されたのは、切りたてほやほやのレバー。ぷるぷると震え、まるで生命の宝石みたいに輝いている。


「もちろん、いただくわ!」


 今こそ、契約の時! 私は目を輝かせ、懐のアイテムボックスに手を伸ばす。 取り出したるは、愛用の調味料セット。


「最高の素材には、最高の敬意を。まずは、オルフェリオン山の山頂でしか採れないピンク岩塩を、ほんの少し」


 ガリガリと岩塩を削り、パラリと振りかける。次に、石臼で粗く挽いたばかりの黒胡椒。そのスパイシーな香りが、レバーの持つ鉄分を含んだ香りと混じり合い、私の食欲を猛烈に刺激する。


「よし、と。いただきまーす!」


 木の葉を皿代わりに、ひと切れつまんで口に放り込む。

 ――その瞬間、私の脳天を衝撃が貫いた。


(なっ……に、これ……!?)


 臭みが、一切ない。皆無。ゼロ。 あるのは、信じられないほどの『甘み』と、ミルクのようにクリーミーで濃厚な『旨味』。歯を立てると、プリッとした心地よい感触。でも、後は舌と上顎で軽く押しつぶすだけで、ほろり、とろり……と、とろけていく。 今まで食べてきたレバーは何だったの!? あの独特のクセはどこへ!? これが、これが本当に獲れたての『命の味』……!


 あまりの美味しさに、感動で涙ぐむ私を、猟師は相変わらずの無表情で見ている。 ふふふ、驚くのはまだ早い。ここからが、貿易商リナの真骨頂よ!


「この味には……これしかない!」


 私がアイテムボックスから自信満々で取り出したのは、一本の赤ワイン。重すぎず、軽すぎない、ベリー系の豊かな香りが特徴の逸品だ。


「さあ、飲んでみて! まずレバーを一口食べて、その旨味の余韻が残っているうちに、このワインを少しだけ口に含むの!」


 彼は怪訝そうな顔でワインの入ったカップを受け取った。まあ、森の奥でずっと一人暮らしなら、マリアージュなんて知らないわよね。 半信半疑のまま、彼は私の言った通りにレバーとワインを口に運ぶ。


 そして。 彼の目が、初めて、はっきりと見開かれた。


 レバーの濃厚な旨味と鉄分を、ワインの持つ爽やかな酸味と果実味が優しく包み込み、後味を驚くほどスッキリと洗い流す。そして、鼻から抜ける香りは、森のベリーと熟成したブドウが合わさった、まったく新しい芳香へと変化する。一口で、二度も三度も美味しい。これぞ、食の魔法!


 猟師はしばらくの間、口の中に広がる奇跡の余韻に浸るように黙り込んでいた。 やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、私を見る。 その口元に浮かんでいたのは――ほんの一瞬、本当にごくかすかな、満足げな笑みだった。


 それは、私という人間を『味の分かるヤツ』だと認めた、何よりの証。 こうして、私と彼の『美味いもの交換契約』は、本当の意味で結ばれたのだった。さて、次は何を食べさせてくれるのかしら! 私の胃袋の冒険は、まだ始まったばかりだ!

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