第3話 ともに記録する者として
「これは、先代族長の言葉を記したものだ」
アトルがそう言って持ってきたのは、分厚い冊子だった。
羊皮紙のような紙に、丁寧な文字がびっしりと並ぶ。墨の香りが残っていて、丁寧に扱われてきたことがわかる。
「日記、みたいなもの……?」
「正しくは記録帳だ。祭祀や儀式、天候や収穫、村で起きた重要な出来事をすべて記してある」
アトルは指先でその一部をなぞる。
「祝福の儀も、代々この記録に基づいて執り行われてきた。誰かの口伝だけでは、曖昧になるから」
「びっくりした」
「何がだ?」
「あなた、文化の記録をちゃんと“体系的に”残してたんだ。あ、いい意味で! なんというか、すごく“学術的”というか」
思わずノリで褒めてしまったが、アトルはぽかんとしたあと、少しだけ顔を伏せた。
「……正直、我は自信がなかった。族長を継いでから、何を守るべきか、よくわからなくて。ただ、“記す”ことで道が見える気がした」
それは、どこかで聞いたことのある感覚だった。
文化を知るには記録が必要。記録には視点が必要。そして視点を得るには、他者を理解する覚悟が要る。
「……あなた、もう十分“研究者”だよ」
私がそう言うと、アトルは意外そうにまばたきをした。
「研究者?」
「うん。だってそれ、自分たちの文化を“残したい”って思ったからでしょ? 知識の継承って、どんな世界でも学びの本質だよ」
静かに、彼は小さく笑った。
「……お前が言うなら、そうかもしれないな」
その笑顔は、これまで見た中でいちばんやわらかくて、危うく見とれそうになった。
たぶん、今の私は“研究対象”としてじゃなく、“対等な人”として彼を見つめている。
……それに気づいてしまったのは、ちょっとだけ、悔しい。
「その、アトル」
「なんだ?」
「この記録帳……少し読ませてもらってもいい?」
「もちろん。我らの歴史に触れてくれるなら、光栄だ」
差し出された記録帳は、想像以上に厚かった。
でも、ページをめくる手が止まらない。
それはまるで、知らなかった彼らの心の奥へ、少しずつ触れていくような感覚だった。
夜。焚き火の明かりが揺れていた。
小屋の外、風が木の葉をかすめていく音だけが響く。静かな時間だった。
私は火を見つめながら、隣に座るアトルに声をかけた。
「さっきの記録帳、すごく丁寧に書かれてたね。年ごとの収穫量とか、病の流行とか、あと──」
「うむ。前族長が几帳面だったからな。数字を並べるのが好きだったらしい」
「……ちょっと親近感あるかも。私も大学では調査データばかりいじってたから」
アトルは珍しく、声を立てて笑った。
「やはり似ている。我らは“形を遺す”ことに執着しているのかもしれないな」
その横顔は、火の光に照らされて柔らかく見えた。
どこか、大人びた少年のような。あるいは、責任に追われる若きリーダーのような。
「でも……」
不意に、アトルが口を閉じた。
「どうしていいのか、分からぬ時がある」
「何が?」
「夫婦とは、どうあるべきなのか。お前を守りたいと思う気持ちは本物だ。だが、それが“正しい夫”なのかどうか、我にはわからぬ」
「……」
「お前に笑っていてほしい。だが、無理に笑わせることは違うと思う」
その言葉に、胸の奥がじわっと熱くなった。
彼はただ“形式”をなぞるのではなく、今、自分の言葉で“関係”を築こうとしている。不器用だけれど、誰よりも誠実なやり方で。
私は、笑った。
「じゃあさ。今すぐ“夫婦”にならなくてもいいよ」
「?」
「共同研究者ってことで、どう?」
アトルは驚いたように目を丸くした。
「共に文化を記録し、理解し合う。それなら、私たちの関係にもぴったりでしょ?」
少し間を置いて、彼は小さく、笑った。
「なるほど。その発想は、なかった」
火が、ぱちんと弾ける音を立てた。
その音に紛れるように、アトルが静かに呟いた。
「共に学ぶなら、我は良き“相棒”であろう」
「うん。私も、そうありたい」
こうして、異世界の小さな村で始まった“誤解からの夫婦生活”は、少しずつ、本当の関係へと変わり始めていた。
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