第2話

夜の霧は重く、灯火を飲み込んでいた。


榊原倫太郎は宿をあてがわれず、お篠婆の小屋に身を寄せていた。

土間の隅には束ねた羊歯がいくつも積まれ、影となって揺れていた。


「眠るな」


婆の声は囁きに近かった。


「目を閉じれば、傀儡に引かれてゆく」


倫太郎は疲労で瞼が重かったが、必死に目を見開いた。

そのとき、土間に置かれた羊歯の束が、わずかに震えた。

風はない。なのに葉擦れの音が鳴る。


やがて、束は立ち上がった。

人の形を保ち、ぎこちなく首を持ち上げる。

眼はない。口もない。ただ羊歯の葉が擦れる音が「歩く」ことを告げていた。


「……本当に動くのか……」


倫太郎は息を呑んだ。

その瞬間、足首に冷たい感触が絡みついた。

羊歯の葉が勝手に伸び、彼の体を操ろうとしていた。


「力で抗うな」


お篠婆が叫んだ。


「抗えば、骨まで喰われるぞ!」


倫太郎の足は意志に反して前へ踏み出した。

膝が勝手に曲がり、腰が折れ、腕が宙に揺れる。

まるで見えない糸で操られる人形のようだった。


「これが……傀儡……」

声は震え、息は荒く、額には冷や汗が浮かんだ。

動かされる身体は自分のものなのに、自分ではない。

全身を這う羊歯の葉擦れの音が、耳にこびりつく。


「傀儡は人を操り、森へ連れてゆく」


お篠婆は震えながら呟いた。


「行った者は戻らぬ。戻ったとしても、人の顔じゃない」


倫太郎の足は土間を出て、夜霧の中へ進んだ。

抗おうとしても、筋肉は糸で吊られたように動かない。

羊歯のざわめきが身体の内側から響き、鼓動を真似ていた。


やがて森の入口に辿り着いた。

無数の羊歯が風もないのに揺れ、ざわざわと笑っているようだった。

そして、その奥から──人の形をした無数の影が現れた。


どれも羊歯で編まれた体。

しかし、その顔だけは“村で消えた人々”のものだった。


倫太郎は凍りついた。

弥助、篠田、そして……まだ名も知らぬ子供まで。

皆、笑いも泣きもせず、ただ無表情に歩いていた。


羊歯傀儡は彼に手を伸ばした。

その手は湿り、冷たく、しかし人肌のように柔らかかった。


「ようこそ、木偶側へ」


誰かの声が耳元で囁いた。

しかし振り返っても、そこには誰もいなかった。

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