第17章 希望のインク
第44話 決別
完成とは、終わりではなく、次の始まりのための扉。その気づきは、私たち三人の間に、新しい季節の訪れを告げていた。祖父が遺した肖像画は、もはやただの絵画ではなく、私たちの過去と未来を繋ぐ、羅針盤のような存在となっていた。創造の本当の価値とは何か?その問いは、もはや私を苛む棘ではなく、これから進むべき道を照らし出す、温かい光へと変わっていた。私たちは、その光に導かれるように、新しい物語の、最初のページをめくり始めていた。
■決別
額装された肖像画を前に、私たちは、ユカリが提案してくれた展示の構想を練り始めていた。ユカリがスケッチブックに、印刷所の空間を活かしたインスタレーションのアイデアを、生き生きとした線で描き出していく。そのスケッチの上に引かれた、未来を示す矢印が、私の心をも躍らせた。
ふと、私はポケットからスマホを取り出した。画面には、最後に更新した日から、時が止まったままの、私のアカウントが表示されている。フォロワー、三万人。その数字を、私は数秒間、ただじっと見つめた。かつて、この三万という数字の向こう側にいる、顔の見えない人々の承認を得るために、私は自分の魂を切り売りしてきた。
「決別、だね。昔の自分と」
ユカリが、優しい目で、そう言ってくれた。
「うん」と頷く私に、ミナトさんは、何も言わずに、温かいお茶を淹れてくれた。彼の深い藍色が、私の決意を、静かに肯定してくれている。
私は、何も言わずに、アカウントの削除ボタンを長押しした。画面が白く明転する。ミナトさんが淹れてくれたお茶の湯気だけが、静かに立ち上っていた。デジタルの喧騒から切り離された、静寂。その中で、私は、創造の本当の価値とは、誰かに評価されることではなく、自分自身が、その過程と物語を、どれだけ深く愛せるかにあるのだと、確信していた。
■宝物として
「この絵は、どうしようか」
ミナトさんの問いに、私たちは、顔を見合わせた。ユカリが提案してくれた展示が終わった後、この肖像画は、どこへ行くべきなのだろう。
「美術館に寄贈するとか?」
「それも、少し違う気がするな」
私たちの会話を聞きながら、私は、この絵が収められていた、あの古い桐の木箱のことを思い出していた。
「……あの箱に、しまっておくのは、どうかな」
私の提案に、二人は、はっとした表情になった。
「宝物として、だね」
ユカリが、微笑む。
そうだ。これは、私たちの宝物なのだ。私たちは、肖像画を、再びあの木箱の中へと、そっと収めた。蓋を閉めると、祖父の物語は、再び静かな眠りにつく。けれど、それは終わりではない。この箱を開けるたびに、私たちは、いつでも、この始まりの場所へと、帰ってくることができるのだ。
その時、私は、もう一つの「宝箱」のことを思い出した。実家から持ってきた、古いUSBメモリ。大学に入る前の、まだ私が、色のない世界にいた頃の作品データが、そこに入っているはずだった。
私は、印刷所の隅にある古いノートパソコンを借り、そのUSBを差し込んだ。フォルダを開くと、懐かしいファイル名が、ずらりと並んでいる。その中の一つをクリックすると、画面に、一枚の絵が表示された。
それは、私が高校生の時に描いた、モノクロの、ペン画だった。複雑な模様と、幾何学的な線だけで構成された、抽象画。そこには、SNS映えを狙った計算も、誰かに媚びるような甘さも、一切なかった。ただ、描きたいという初期衝動だけが、純粋な形で、そこに焼き付けられている。
「……すごい」
後ろから覗き込んでいたユカリが、小さな声で言った。
「この頃から、ハルは、ハルだったんだね」
その絵は、確かに、今の私に繋がっていた。色の洪水に溺れ、数字の波に翻弄され、遠回りをしたけれど、私は、ちゃんと、この場所へと帰ってきたのだ。私は、そのUSBメモリを、祖父の肖像画が収められた木箱の隣に、そっと置いた。過去と現在、二つの宝物が、静かに並んでいる。
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