第13章 紫の朝焼け
第36話 最終工程
赦しによって生まれた淡黄緑の光は、私の胸の中心で、小さな灯火となって静かに燃え続けていた。それは、私が初めて自分自身の力で生み出した、本物の色だった。過去のすべての痛みが、この小さな光を灯すための、かけがえのない燃料だったのだと、今は思える。そして今、私たちは、物語の最終工程を迎えようとしていた。祖父の肖像画の、あの白い余白を、私たちの手で生み出す色で満たす、その瞬間。自分の色は他者にしか見えないのか?その長年の問いの答えが、もうすぐ、この手の中に生まれ落ちようとしていた。
■最終工程
夜明け前の、最も深く、静かな時間。印刷所の中は、裸電球のオレンジ色の光と、これから始まる儀式への、厳かな緊張感に満ちていた。ミナトさんは、無言で印刷機の最終調整を行っている。この工房の主(ぬし)であるハイデルベルク社のプラテン機は、気難しい顔で、主人の手つきをじっと見守っている。彼がその心臓部である版盤(プラテン)を開き、新しい版をはめ込む。プレート交換。カシャン、という硬質な金属音が、私たちの覚悟を肯定するように、静寂に凛と響いた。
その新しい版には、私がタブレットで描いた、祖父の表情のデータが、樹脂の凹凸となって刻み込まれている。私のデジタルのピクセルが、初めて、確かな物質としての形を与えられた瞬間だった。
「インクの準備をします」
ミナトさんの声は、いつもより少しだけ、硬質だった。
作業台の上には、二種類のインクが用意されていた。一つは、私が長年、SNS上で自分を演じるために使い続けた、虚構の色。人目を引くための、少しだけけばけばしいネオンピンク。もう一つは、私が現実世界でずっと感じてきた、孤独の色。誰にも届かない、冷たくて、内にこもる藍。
私の人生を象徴する、この二つの色。それらを混ぜ合わせるのではなく、別々のローラーに乗せ、紙の上で、偶然に、そして必然に、融合させるのだという。
「ピンクは、あなたが見せたいと願った自分。藍は、あなたが隠してきた本当の自分」
ミナトさんは、インキナイフでそれぞれのインクを練り上げながら、静かに言った。
「どちらも、あなた自身です。どちらか一方を、否定する必要はない」
彼の言葉が、私の心の壁を、また一枚、溶かしていく。そうだ。私はずっと、この二つの自分を引き裂き、どちらかを選ぼうとして、苦しんでいた。でも、本当は、選ぶ必要なんてなかったのかもしれない。
ミナトさんが、二色のインクを、それぞれ別のローラーに移していく。ピンクと藍。光と影。嘘と本当。私のすべてが、今、この機械の上で一つになろうとしていた。その光景は、あまりにも幻想的で、私は息をすることも忘れ、ただじっと見つめていた。
■生成
「行きます」
ミナトさんの短い合図と共に、眠っていた鉄の巨人が、重々しい深呼吸を開始した。ガチャン、という音と共に、機械のアームが、旅先で手に入れた楮紙を、一枚、そっと咥え込む。その白い紙の表面が、これから起こる奇跡を前にして、期待に震えているように見えた。紙の震え。それは、新しい命が生まれ落ちる瞬間の、産声のようだった。
紙は、まずピンクのインクが乗ったローラーの下を通過する。次に、藍色のローラーの下を。そして最後に、祖父の表情が刻まれた版盤へと、強い圧で押し付けられる。一瞬の沈黙。時間の流れが、蜜のように、ゆっくりと、濃密になる。
そして、刷り上がった最初の一枚が、排出トレイへと、静かに、滑り落ちてきた。
私たちは、どちらからともなく、その一枚に駆け寄った。ミナトさんが、インクで汚れていない指先で、そっとその紙の縁をつまみ上げる。
そこに、色が、生まれていた。
それは、ピンクでも、藍でもなかった。
二つの色が、紙の上で、奇跡的なバランスで溶け合っていた。ある部分はピンクが強く、ある部分は藍が濃い。そして、その二色が重なり合った境界線で、今まで誰も見たことのない、新しい色が生まれていた。
淡い、淡い、紫色。
それは、旅の夜の夢で見た、あの色だった。夜明け前の、東の空の色。悲しみと喜びが、諦めと希望が、孤独と繋がりが、すべて溶け合った果てに生まれる、自己受容の色。その色は、決して均一ではなかった。インクの滲み、紙の繊維の息遣い、そのすべてが作用し合って生まれた、二度とは再現不可能な、唯一無二の紫。その神秘的なグラデーションは、まるで、私の心の地図そのものだった。
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