第33話 染料職人
次に私たちが訪れたのは、同じ集落にある、藍染めの工房だった。先ほどの製紙所とはまた違う、静謐で、どこか神秘的な空気に包まれていた。土間の中心には、巨大な甕がいくつも埋められ、その中では、藍色の液体が、静かに息づいている。
「ようこそ。藍が、あんたたちを呼んでいたようだ」
私たちを迎えてくれたのは、藍色の作務衣を身につけた、まだ若い職人だった。けれど、その佇まいには、何十年もこの仕事と向き合ってきたかのような、深い落ち着きがあった。
「この藍甕は、百年以上、この場所で生きとるんです」
彼は、甕の縁をそっと撫でながら言った。その甕から立ち上るのは、ミナトさんの色によく似た、けれど、もっと濃く、深く、そして生命そのものの力を感じさせる、夜の藍だった。
「藍は、生き物なんです。毎日かき混ぜて、機嫌をとってやらんと、すぐに死んでしまう。人間と同じで、それぞれに個性もある」
彼は、長い竹の棒で、甕の中をゆっくりとかき混ぜた。すると、藍色の液体が、ごぽり、と気泡を立てて、まるで喜んでいるかのように、鮮やかな泡を立てた。その泡は、藍色だけでなく、紫や緑の光を複雑に含んだ、美しい色をしていた。
「あんたの連れの兄ちゃんも、この藍と同じ匂いがするな」職人は、ミナトさんを見て、にやりと笑った。「あんたも、何かをずっと、守り育てとる人間だろ」
ミナトさんは、少し照れたように微笑むだけだった。けれど、彼の周りの藍色が、目の前の藍甕の色と共鳴するように、深く、そして温かく、揺らめいたのを、私は見逃さなかった。
伝統とは、ただ受け継ぐだけではない。藍甕の藍のように、毎日対話し、世話をし、共に生きることで、新しい命を吹き込み続けることなのだ。デジタルデータのように、コピー&ペーストでは決して伝わらない、生きた哲学が、そこにはあった。
■宿の夜
その夜、私たちは、集落に一軒だけある、古い旅館に泊まった。通された部屋は、い草の匂いが心地よい、簡素な和室だった。夕食の後も、私たちの間の気まずい空気は、消えなかった。ミナトさんは「少し風に当たってくる」と言って部屋を出て行き、私は一人、障子越しの月を眺めていた。
昼間の出来事が、頭の中を駆け巡る。紙漉き職人の、水の話。藍染め職人の、生き物の話。そして、あの親子の、救いのない薄紫。私の無力感は、まだ胸の奥に、重たい澱となって溜まっていた。
どれくらい、そうしていただろうか。障子が、静かに開いた。ミナトさんだった。彼は何も言わず、湯気の立つ湯呑みを二つ、私の前に置いた。温かいほうじ茶の、香ばしい匂いがした。
「……ごめんなさい」
先に謝ったのは、私だった。
「八つ当たり、した」
「いや」
ミナトさんは、私の隣に静かに座った。
「僕の方こそ、冷たい言い方をした。君が見ている痛みを、僕は、本当の意味では理解できない。それが、もどかしい」
彼の藍色から、灰色の靄は消えていた。代わりに、私の痛みに寄り添おうとする、温かい橙色の光が、蝋燭の炎のように、小さく灯っている。
「でも」と、彼は続けた。「僕たちが創るものは、無力じゃないと信じたい。直接救えなくても、誰かの心に、小さな光を灯すことはできるかもしれない。僕は、そのために、文字を拾っている」
彼の言葉が、ほうじ茶の湯気と共に、私の凍えた心を、ゆっくりと溶かしていく。私たちは、それ以上何も話さなかった。ただ、障子に映る月の光を、二人で、静かに眺めていた。
その夜、私は夢を見た。
真っ白な空間に、一人で立っていた。周りには何もない。音も、匂いも、色もない、完全な無の世界。祖父の肖像画の、あの余白の部分に迷い込んでしまったかのようだった。
不安になって、自分の体を見下ろす。すると、私の体からは、あのSNSに蝕まれていた頃の、透明な靄は消えていた。代わりに、私の胸の中心から、ほんのりと、光が放たれていることに気づいた。
それは、淡い、淡い紫色だった。
ピンクと水色が、自然に溶け合ったような、朝焼けの空の色。それは、まだ輪郭もはっきりしない、か細く、頼りない光だった。けれど、それは確かに、私自身の内側から生まれている、私だけの色だった。
その薄紫の光は、ゆっくりと粒子となって、私の周りの白い空間に、滲むように広がっていく。それは、和紙の上に落ちた一滴のインクが、繊維に沿って静かに広がっていく様に、よく似ていた。
夢の中で、私は、泣いていた。それは、悲しみの涙ではなかった。やっと出会えた、という安堵と、喜びの涙。
障子越しの月の光が、涙で濡れた私の頬を、優しく照らしていた。
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