第6章 祖父の肖像
第20話 遺品整理
ギャラリーで倒れたあの日から、私は実家に戻っていた。大学には休学届を出し、SNSのアカウントも、更新のないまま放置している。毎日、ただぼんやりと天井の木目を眺めて過ごすだけの日々。鏡に映る、色のない靄のような自分を見るのが怖くて、部屋の鏡には布をかけてしまった。承認の数字という麻薬が切れ、後に残ったのは、耐えがたいほどの禁断症状と、どこまでも広がる空虚感だけだった。私は、完成する前に壊れてしまった、出来損ないの作品そのものだったからだ。
「ハル、少し手伝ってくれないかしら」
ある秋晴れの午後、母が部屋のドアをノックした。返事も待たずに部屋に入ってきた母の周りには、心配と、私にどう接すればいいのか分からない戸惑いが混じった、薄い水色の靄が漂っている。「おじいちゃんのアトリエ、そろそろ片付けようと思って。あなたも、少しは体を動かした方がいいわ」祖父が亡くなって、もう十年以上が経つ。生前アトリエとして使っていた離れの部屋は、時間が止まったかのように、そのままの形で残されていた。
気乗りしないまま母についていくと、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。油絵具と、古い木と、そして微かなカビの匂い。デジタルではない、物質だけが放つことのできる、重みのある匂い。部屋の隅には、イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスや、絵の具で汚れた布が、主を失ったまま散らばっていた。
「この木箱、重たいから運ぶの手伝ってくれる?」母が指差したのは、部屋の隅に置かれた、大きな桐の画材箱だった。祖父が若い頃からずっと大切にしていたものだと、昔聞かされたことがある。二人で持ち上げると、ずしりとした重みが腕にかかった。それは、ただの木の重さではなかった。祖父が生涯をかけて絵と向き合ってきた、その時間の重みそのものだった。
リビングに運び込んだ画材箱の蓋を、母が開ける。きぃ、と軋んだ蝶番の音が、静かな午後に響いた。その瞬間、箱の中から、閉じ込められていた祖父の「色」が、ふわりと溢れ出した。
それは、夕陽のような、温かい赤金色だった。
粒子はとても穏やかで、懐かしい匂いと一緒に、私の心をそっと撫でていく。SNSのけばけばしい派手色でも、人の心を抉るどす黒い色でもない。ただ、そこにあるだけで安心できる、陽だまりのような色。私は無意識のうちに、その木箱に手を伸ばしていた。指先が、ざらりとした木の表面に触れる。その感触が、あまりにもリアルで、私は泣きそうになった。
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