5話

​ 翌朝、誠一が目を覚ますと、玄関先は驚くほど綺麗に片付けられていた。昨夜までの腐敗臭は嘘のように消え、蛇口からは、冷たく透き通った水が勢いよく流れ出す。村人たちは約束通り、誠一に「安らぎ」を差し出したのだ。

​ 「(単純な連中だ。これで僕を味方につけたと思っている)」

​ 誠一は、昨夜録画した多田たちの告白データをクラウドの多重バックアップに放り込み、不敵な笑みを浮かべた。彼の計画は次のフェーズに移行していた。「和解した隣人」の仮面を被り、村人が最も隠したがっている聖域――奥ノ沢の社の深部へ合法的に潜入し、その正体を暴くことだ。

​ 正午過ぎ、多田が昨夜の約束通り、古びた蔵の鍵を手にやってきた。

 「誠一さん。昨夜お話しした、村の『記録』をお見せしましょう。社へ行く前に、まずはここにある資料を見ていただいた方が、我々の危惧も理解していただけるかと思いまして」

​ 多田に導かれたのは、役場の裏手にある、苔むした石造りの資料庫だった。重い扉を開くと、カビと古い和紙が混ざり合った、呼吸を拒むような濃密な空気が肺を満たす。

 誠一は、老眼鏡をかけるふりをして、度付きレンズに仕込んだ超小型カメラの録画を開始した。

​ 「……これが、『声』の記録です」

​ 多田が差し出したのは、江戸時代から続くと思われる、数冊の膨大な日記だった。そこには、歴代の「声」を持つ女たちが、トランス状態で吐き出した言葉が、震える筆跡で記されていた。

 誠一は、適当にページをめくりながら、心中で喝采を上げた。

 

 『○年○月、風の色が変わる。西の尾根が震え、三日の後に地が割れん』

 『○年○月、外より赤き病が入り、三つの家を飲み込む』

 

 それは、単なる迷信と片付けるにはあまりにも具体的で、悍ましいほどに的中していたことが注釈で添えられている。

 「(信じられない……。これそのものが、世界的なオカルト・ドキュメンタリーの金鉱だ。村人が『外に漏れるのを恐れる』わけだ。こんなものが公になれば、この村は研究者とメディアに文字通り踏み荒らされる)」

​ 「佐伯さん、分かりましたか。言葉は、放たれた瞬間に現実を縛るのです」

 多田の目が、暗がりの中で異様に光った。

 「だからこそ、我々は扉を閉め続けねばならない。外の世界という広すぎる海に、この『言葉』を流してはならないのです。薄まり、歪み、取り返しのつかない形で世界を侵食してしまうから」

​ 「ええ、よく分かりましたよ、多田さん」

 誠一は神妙な顔をして頷いた。だが、彼の脳内では、この資料をどうスキャンし、どうやって「村の狂気」としてセンセーショナルにパッケージ化するかという計算が、高速で回転していた。

​ 「では、いよいよ社へ案内していただけますか? そこで『声』が生まれる儀式の場所を見れば、僕もこの村をどう守るべきか、より深く理解できると思うんです」

​ 「……よろしいでしょう。ちょうど今夜は、月が欠ける夜。奥様も、ご一緒にお連れください。よし子さんも、先ほどからあちらで準備をしておりますので」

​ 多田の言葉に、誠一は一瞬だけ違和感を覚えた。なぜ、奈緒まで呼ぶ必要があるのか。

 しかし、スクープへの渇望がその疑問を打ち消した。

 「(奈緒も一緒なら、より『自然な移住者の家族』として映像に映える。完璧だ)」

​ 誠一は、資料庫を出て、自宅で待つ奈緒を迎えに行った。

 家の中では、奈緒が床に座り込み、村井の井戸水を最後の一滴まで飲み干していた。

 「誠一さん……。準備は、できているわ」

 彼女の肌は、不気味なほど白く発光し、その腹部は、何かの拍動に合わせてゆっくりと、だが力強く脈打っていた。

​ 誠一は、高まる鼓動を抑えながら、カメラの予備バッテリーを確認した。

 彼がこれから踏み込むのは、村の秘密を暴くためのステージではない。



​ 標高が上がるにつれ、空気は湿り気を帯び、デジタル機器の液晶画面が不自然に波打ち始めた。誠一は、多田に導かれながら胸元の隠しカメラの角度を密かに調整した。

​ 「(この先に、村の『核』がある。そこを撮れば、僕の物語は完成する)」

​ 杉林の合間から見えてきた社の前で、よし子が待っていた。よし子が奈緒の手を優しく、だが拒絶を許さぬ力で取った。

 「誠一さん。ここからは男と女は別々です。本殿の奥、儀式を執り行う聖域は女人禁制。そして私たちが向かう離れは、男子禁制の場。これは守っていただきます」

​ 誠一は一瞬、奈緒を一人にすることに躊躇したが、それ以上に激しい後悔が胸を焼いた。

 「(……しまった。奈緒に持たせる分の隠しカメラを用意しておくべきだった。普段着のままなら、どこにでも仕込めたのに。あっちで何が行われるのか、音声だけでも拾えれば最高だったのに)」

 だが、本殿の「女人禁制」の場を拝めるチャンスを逃すわけにはいかない。彼は多田に促され、奈緒の後ろ姿を見送りながら、冷たい石段を上がった。

​ 多田が重い板戸を開け、誠一を案内したのは、確かに本殿の最深部だった。そこにはカビの臭いと共に、村の歴史を記した膨大な巻物や古文書が鎮座していた。

​ 「(……きた。これだ。これこそが、僕を歴史に刻む証拠だ)」

​ 多田は「ゆっくりとご覧なさい」と言い残し、影のように闇の中へと下がっていった。

 誠一は多田が背後へ下がったことを確認すると、周囲の視線がないことを確信し、ゆっくりと身体を回転させ始めた。胸元のピンホールカメラが、この聖域のすべてを余さず記録するように、機械的で滑らかな動作を意識する。

​ 煤けた天井を支える太い梁、長年の埃を被ったまま並ぶ古びた木箱、壁に掛けられた出所不明の祭具や、漆黒の光沢を放つ板戸、亀裂の入った古い注連縄。誠一はそれらを、将来の編集ポイントを見定めるプロデューサーの視線で一つひとつレンズに収めていく。

​ 彼はそのまま一回転を終え、最も大きな長持の前に膝をついた。誠一は、震える手で最も古い巻物の一つに手を伸ばした。

 誠一は隠しカメラのピントを固定し、ページをめくる。そこには、過去の「声」が予言した凄惨な出来事の数々と、それを村がどう利用して生き延びてきたかという、おぞましくも完璧な「記録」が記されていた。

​ 誠一の脳内では、すでに勝利のシナリオが完成していた。

 「(この映像を『現代の禁忌』としてシリーズ化する。海外の配信プラットフォームに独占放映権を売れば、億単位の金が動く。僕は村の『呪い』を最高のエンターテインメントに変えた天才として名を残すんだ……)」

​ 彼は陶酔していた。一畳ほどの埃のたまった祭壇も色々な角度でカメラに収めた。

​ どれほどの時間が過ぎただろうか。

​ 「佐伯さん。そろそろ、奥様のお清めも終わった頃でしょう」

 多田の声に跳ねるように我に返った。一時間が経過していた。誠一は慌ててカメラの記録を保存し、資料を元に戻した。

​ 本殿の外へ出ると、離れの板戸が開き、よし子に付き添われた奈緒が出てきた。

 「奈緒、そっちはどうだった?」

 「……ええ。大丈夫よ。この村が背負ってきた『過去の歴史』を、よし子さんから聞いただけ。私たちが決して触れてはいけない、深い、深いお話」

​ 彼女の返答は淀みなく、冷たく澄んでいた。

​ 誠一は、自分のザックの中に眠る「情報の宝石」を抱きしめ、勝利の笑みを噛み締めながら山道を下り始めた。

​ 山を下り、自宅に戻った誠一は、かつてない高揚感に包まれていた。

​ 「(完璧だ。これ以上ない素材が手に入った……。明日から、世界が僕を放っておかなくなる)」

​ 誠一はMacBookをあえて開かなかった。この最高の「獲物」を料理するのは、一晩寝かせて、頭を冷やしてからにしようと考えたのだ。

​ 「奈緒、今日は疲れただろう。乾杯しよう」

​ 誠一は冷蔵庫から、移住の際に持ち込んだとっておきのワインを取り出した。

 奈緒はリビングの窓際に座り、暗い山並みをじっと見つめていたが、誠一の声にゆっくりと振り返った。彼女の表情は穏やかだった。

​ 「ええ……そうね、誠一さん」

​ 二人は、村の静寂の中でグラスを重ねた。冷たい液体が喉を通るたびに、誠一は勝利の余韻に浸り、奈緒はただ、何かから解放されたような静かな微笑を湛えていた。

 「結局、僕たちが正しかったんだ。この村を理解し、尊重したふりをして、僕たちのやり方で支配すればいい。安らぎなんて、そんな安い言葉に騙される必要はなかったんだよ」

​ 誠一の独白を、奈緒は否定も肯定もせず、ただ優しく聞いていた。

 やがて、ワインの酔いが二人の身体を心地よく支配し始める。誠一は、隣に座る奈緒の肩を抱き寄せた。彼女の肌からは、まだあの社の冷気と、かすかな熱が混ざり合ったような独特の匂いが立ち上っていた。

​ 「……寝ようか」

​ 誠一に誘われるまま、奈緒は静かに立ち上がった。

 寝室の闇の中で、二人の身体は重なった。誠一は、自分を受け入れる奈緒のぬくもりの中に、これからの輝かしい成功を確信し、陶酔した。

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