タルパの正しい飼い方
納骨のラプトル
(上)
2024年6月5日。快晴。東の風、風量4。991hpa。23℃。晴れた空にしては少々気圧の低い朝に、頭痛に叩き起こされた。一人暮らしの広すぎるシングルベッドから、今日もゆっくりと体を起こす。
「……あたまいたい」と呟けど、心配してくれる人なんかは一人もいない。慢性的に痛む頭を抱えて、キッチンに薬を飲みに行く。
私は15歳の時に、故郷から離れた高校に進学するために一人暮らしを始めた。何もその高校でなければ絶対に嫌、というわけでもないが、親が嫌いだった。父親は会社が失敗し蒸発、母親もデリカシーとモラルに欠け、碌な人ではなかった。だから私は遠方の高校に進学して親元を離れた。母親も、送り出す時が今まで見たことない程に嬉しそうだった。何一つ言葉を交わさず、私は新幹線に乗った。新幹線の車内でもとてもじゃないが郷愁の念などは湧かない。私のちっぽけな心に浮かび上がってくるのは、新生活に対する幾許かの不安と、やっと親元を離れられたという安心感だけだった。
強引に二錠の薬を一杯の水で流し込む。相変わらず嚥下するのは苦手だ。思わずえずいてしまう。それを何とか流し込むと、ソファに大きく倒れこんだ。さっきまでベッドで寝ていたのに、立って歩こうという気概すら起きない。
「……今日は、学校に、行かなきゃ」自分に言い聞かせながら立ち上がろうとする。苦心しつつ立ち上がっても、またすぐに倒れてしまう。もうこれで四日連続だ。いい加減学校に行かなければ。多くの人が迷惑する。
ふとスマホに通知が届く。
「想さん、大丈夫?今週まだ一度も来てないから、心配で」
友人だった。こんな私を心配している人がいると思うとまた胸が締め付けられるようだった。そのメッセージに
「何とか今日は行くから安心して」と返信して必死に這い上がる。やはり今日は行かなくては。どっちに対しても面目が立たない。
制服に袖を通すのも億劫だ。最後に食事をとったのは一昨日の夜だったか。いや、そんなことは細事だ。私を心配して、気を遣ってくれ、連絡まで寄越してくれる人がいる。期待には、応えなくては。久しぶりに着たセーラー服を軽く手で払ってから、ちゃんとしたナリをしようと肩を張って学校へと向かった。
学校までは電車で十五分。駅まで歩く時間を勘案しても三十分は超えない。今から行けば余裕だろう。歩き始めてみれば、自分の足はするすると動いてくれた。何か強烈な目的意識が運んでいるというほうが正しいのかもしれない。四日連続で休んだこと、その事実が私をどうしようもなく焦燥させて駆り立てているのは事実だ。後ろに虚影の重さを感じながら、必死に駅を目指した。駅に着けば、すでに駅で通過待ちをしている各駅停車に、息も絶え絶え走りこんだ。すぐにドアが閉まって、私の足でなくても体が運ばれてゆく。満員とは言わずとも人の多い車内だ。吐き気がして仕様がない。実際には一分も触れているか怪しいものだが、私にはとんでもない力がかかっているようにしか思えなかった。悪阻にも似たおぞましい不快感を抱えて、ひたすらに耐える時間だった。
四駅後の電車でドアが開いた時、ようやく全ての不快が逃げて行って、私の体に主導権が戻ってきた。あとは歩けば、とりあえずは学校について面目は立つだろう。きときと音を鳴らす躰を、必死に運んだ。たった5分程度の徒歩経路が、永遠の全長を伴っているような錯覚と疲労に襲われたが、それでも足は止めなかった。
静寂群衆を別つ。スライド式のドアを開いて教室に入った瞬間、明らかに空気が変わった。私の姿を見た誰もが口を噤む。当然か、四日も無断で来ていなかった人がいきなり来たとなれば誰だって驚くだろう。あぁ、だから私の家の電話は鳴っていたのか。取りに行く気力さえ起きなかったから、全く忘れていた。少し自席の方に歩いていくと、すぐに私の方に寄ってくる影がある。あのメッセージをくれた友人だった。
「あぁ、ようやく来てくれた。ずっと心配してたんだよ?」と、優しく声をかけてくれる。その声を聞いて、意味を解した瞬間に、グッと胸が押される感覚がして、心拍が異常なまでに上がる感じがした。また私は人に心配をかけて、本当に何をやっているのだろうか。あぁ、たまらなく嫌だ。私なんかに心配をさせるような、私のことが。やはり無理にでも早いうちに出てきておくんだった。今更反省しても遅いが、無理にでも笑顔を作って向き直る。
「はは、心配かけてごめんね、大丈夫だから、ありがと」
自分でも聞くのに難儀するほどかすれた声だったが、どうにもそれで安心してくれたらしく、その友人は元居た場所に戻っていった。
当然教師には怒られたが、右から左だった。学校としても安否が確認できないのは――とか言われたが、そんなことは知ったことではない。寧ろ私はこの人が私のことを心配していなかったことに安堵した。生きてさえいればいい、と思っていてくれているならそれが一番だ。兎角聞くだけは聞いて、そのあとは出たくもない授業に出て。何を聞いても頭に入ってこないようで、3限を回れば頭痛がしてきたので、伝言申し添えて早退した。私は何がしたくて高校に来たのだったか。もしかしたら、ただ母から離れたかっただけなのかもしれないけれど。
帰りの電車は、人が少なくて快適だった。少なくとも吐き気もしなければ逃げ出したいという衝動も感じない。また自宅最寄り駅に着いて、今度は比較的まっとうな精神で歩けた。いい加減食事をとらな過ぎていたので、帰りにはスーパーによって食材を見繕うということも必要だった。食欲はほとんどないが、それが原因で餓死してしまえば犬死にである。
相変わらず冷売コーナーは寒い。肉魚の類を見繕うのにも些か底冷えがする。今日は鶏肉でも食べようか――なんて考えていると、ふと後ろから
「魚も買っていきなさい、明日どうせ貴女動けないんだから」
なんて、聞いたことのない声が聞こえて。振り返るとそこには、少しだけ宙に浮いた『誰か』が、そこにいた。
見たところ、いや、見たところも何もない。何というか、本能的に――嫌ではないと、そう感じた。無論見たこともない、もはや人間かも怪しい『何者』か、だが。その絶対に聞いたことのない声だけが、一口に私の心を解くような感じがした。その姿を見定めたまま、相手の目を見て「あなたは、誰?」と問いかける。すると一間置いて「さぁ?」と気のない微笑を含んだ回答が返ってくる。
ついに幻覚まで見えるようになったか。いや、返答があるんだから幻覚でもないか?じゃあ何だろう、この――めんどくさいから人でいいか――突如現れた、謎の人は。言われたとおりに適当に魚を見繕いながら、あれやこれや考えていた。さっき見ていた限りでは、どう見ても浮いていた。背丈も私と同じぐらいで……女性らしい。顔立ちも端正だ。人間のような体も持ち合わせているし……全く体温があるような感じはしないけれど。私が少し動けば、伴ってついてくる。時折声をかけてくるのは、大体私の食の話だった。
「もっと食べないといい加減ぶっ倒れるわよ」とか、「大体二日も食べないとか正気?」とか。どうして私が二日間食べてないのかを知っているのかとか疑問は絶えなかったが、さっさと買い物を済ませて足早に帰宅した。さすがに街行く往来を独り言しながら歩くわけにも行かず、無言のまま二人で歩いた。まるで最初からいたかのように、あるいはついていくのが当然かのように。
握力が足りなくて家の鍵が開け辛い。三カ月前は素直に回ってくれたものだが、ここ最近はそれなりに辛くなってきた。大体一分くらい格闘していると開くのだが――それなりに億劫だ。いつものように格闘していると、ふっと後ろから手が伸びてきて私の右手に重なる。すると驚くほど簡単に扉は主張をやめた。
「……えっ」声にならない驚嘆が漏れる。
「早く入りなさいよ」と促されて、途端に立っているのが気恥ずかしくなって、家に逃げ込むように入った。相変わらず、誰も待ってはいない家に。買ってきた食物を適当にキッチンに投げ込んで、手も洗わずソファに倒れこんだ。どっと疲れた。いくら義務的に行った学校とはいえ、私のキャパシティにしては3時間ほどいただけでも頑張っている方なのだから。褒められたことではないが、誰も責めないことを祈るしかない。
さて、問題はもはやそこではない。今最も問題にすべきなのはどう考えてもいきなり見えるようになった彼女である。余程の楽観主義者か手練れでなくてはこの事象を無視することはないだろう。さっき誰かと問うても満足な返答はなかった。では、何か聞き方を変えて。
「何て、呼んだらいい?」と、淡泊な聞き方を。彼女は満足そうに向き直る。
「じゃあ……いや、何も思いつかないわ」明らかに含意のある笑顔を浮かべながらそう言い放つ彼女。誰が見ても、何か思いついているのに、あえて言わない――そういう表情。でも引き出せない。私は、その表情を一挙に打ち崩して、その裏にある本音を引き出すための合言葉を知らない。
「……呼び名がないと不便だから、何か適当にでもいいから決めて」「なら『幻灯(げんとう)』。いい『呼び方』でしょ?」明らかに考える時間のなかった返答。やはり最初から決め打っていたんだろうな。なんとか言葉を紡がなければという葛藤を背中に感じて喉が焼ける。
「幻灯……じゃあ、そう呼ぶね」「よろしい」さぞ満足気、か。どうやらお気に召したらしい、言いだしたのは自分のくせに。
一旦夕餉を誂えた。その間、彼女は椅子に座ってただ遠くを眺めていた。明らかに窓のない方向を眺めていたけれど、そのことを追求する元気は私にはなかった。質素な食事が卓上に並ぶ。「食べないとぶっ倒れる」なんて言われてしまったから、普段よりも真っ当な量を作ったつもりだが。相変わらず彼女はさっきから何も話してくれない。見守られていると言えば聞こえがややいいが、凝視されながら夕餉を食べた。いつになく長い夕餉だった。
夕餉が終わり、しばし静寂が訪れる。通常の人間であれば団欒と呼ばれる時間を過ごす時間である。私が普通の人間でないことは承知のところだ。目の前の彼女の目を、久しぶりに見た気がする。
「……幻灯、結局貴女は、誰なの?」「……まぁ、そろそろ答えてあげなきゃ可哀想か」「?」「貴女頭いいから、きっと理解するで しょ――タルパとかイマジナリーフレンドとか、そういった概念ぐらいは知ってるでしょ?」「……まぁ、どことなくは」「私もその類、としか言いようがないわね」「……よく、わからない」「すぐにでもわかるようにちゃんと説明してあげるわ。さっきドアが開いた理屈まで込みで」さっき。実体のない彼女が、手を添えただけでドアは簡単に開いた。普通に考えれば、おかしい話だ。
「貴女は……そう、強いて言えば『忘れていた』。正しく握力を発揮する方法を。だから、私が体に直接訴求して『思い出させた』。――と、これがさっきのカラクリ。どう? ……全く納得できない、って顔をしているけれど」当然だろう。こんな話をいきなりされて、おいそれと納得の行く人がいたら、その人はおそらく何かとんでもなく賢い生き物の生まれ変わりに違いない。
「ま、直にわかるわよ……とにかく、体調管理にぐらい気を遣うことね――じゃないと、ほんとに死んじゃうわよ?」一瞬背筋をなでるような感覚。脅しで言っているわけではないことが身に感じられる。間違いなく私の深部まで熟知されているという恐怖に似た感情……いや、ある意味で異なる、安心に似ている。そんなはずがないのに、ここまで言われたことに対する安堵が生じている。私はこの現象の名前を知らない。
明くる日――6 月6日。晴。風弱し。1017hpa。26℃。妥当な天気に妥当な気圧が過ごしやすい良い天気だ。寝て起きた時、幻灯はいなかった。相変わらず這い上がるようにして、ベッドから出る。昨夜の幻覚を一枚一枚反芻するようにしながら、体の良い朝食を用意して、齧りつつ思考の世界を活性化させていく。
考えるべきことが、また増えてしまった。学校のこと、これからのこと、そして幻灯のこと……自然に嘆息が漏れる。どれだけ考えても、それらしい結論は出てこなくて。
「ああ、やめにしよう――」最後に出てきたその独り言を皮切りに、適当に学校へ向かう準備を整える。と、立ち上がる、いや、立ち上がって、前方に体を動かそうとしたときに――
パタリ、と倒れる。全く痛みはない。ただ、そう、体が横倒しになっただけのこと――なのだが。別に倒れること自体は初めてでもなんでもない。慣れた話、日常が一つ。ただ、明らかに違う、何かが――立てない。嘘だと思っても、立てない。より正確に言えば、まるで足がなくなったような……そんな感触。しかし、全く笑えない。いずれにせよ、立ち上がれない、というのは相当にまずくて、嫌な汗が額を伝う。未知の言語で描かれた設計図を頭の中で広げていると、後ろから久しぶりに聞いた声が聞こえた。
「だから、言ったのに」なんて、静かな、力強い、意地の悪い声。
彼女は私の上半身を抱き上げるようにして私に触れる。自然と体が持ち上がって、自分の足が戻ってくるような感覚、私は何とか元居た椅子に腰かけて、彼女のいる方に向き直る。
「歩き方が、わからないの」やっと出た自分の言葉。彼女はその言葉を嚙みしめるようにして微笑む。
「貴女が忘れても、私が覚えてるから」一瞬の、静寂。
今日は頭痛のしない良い気圧だ。駅まで歩けて然るべき。彼女が私の手を引く。
「細かいことは、道中で話すから」私は彼女の手を取った。
タルパの正しい飼い方 納骨のラプトル @raptercaptain
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