箱
ヤマ
箱
古びたエレベーターが、軋む音を響かせながら、下降していく。
四階で、停止。
ベビーカーを押しながら、黒いワンピースを着た女が乗り込んできた。
ワンピースの裾が、歩くたび、湿ったように重たく揺れる。
顔は土気色で、髪は濡れた藻のように、肌に張り付いていた。
俯いたままで、端に寄った俺の方を見ようともしない。
狭い空間に、沈黙が落ちる。
耳に付くのは、エレベーターの駆動音だけ。
女は息をしているのかさえ、わからない程、動かない。
微かに揺れるベビーカーだけが、この鉄の箱の中で、生き物めいていた。
やがて、布に覆われたベビーカーから、小さな手が覗いた。
その皮膚は、妙に白く、指先が痙攣するように俺の方へ伸びる。
思わず視線を落とすが、影に沈んだ中身は見えず、ただ「手だけ」がしっかりと存在していた。
「……あの」
声を掛けかけて、やめた。
女は俯いたまま、こちらに一度も、視線を向けない。
赤ん坊の指先が、俺の手に、触れた。
同時に、エレベーターが一階に到着し、ドアがゆっくりと開く――
赤ん坊が、突然泣き出した。
女は、がくりと折れた首を持ち上げるように顔を上げ、掠れた声で「よしよし」と繰り返した。
その仕草は、あまりに機械的で、人形のようだが、普通の母親の行動そのものだった。
泣きじゃくる赤ん坊の小さな手は、火傷したかのように赤くなっている。
一方、俺は、彼女らに続いて、エレベーターから久しぶりに降りた。
俺の存在を認識できる器との出会いに――
口の端を裂きながら、耐えきれない程の歓喜の笑みを浮かべて。
箱 ヤマ @ymhr0926
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