インビジブル・イナニメイト

杏酒

登山ノート

帽子を取って汗を拭い、遠くの鉄塔を見つめる。


標高600m程の登山だが、久しぶりにやるとこうも辛いものか。


早まる鼓動を抑えて、水をチビりと飲む。


暑い。ノリと勢いでここまで来たが、夏の晴れの日にやるもんじゃない。


頂上の休憩用ベンチに腰かけ、カバンからおにぎりをひとつ取り出す。

今日はアサリしぐれ。近所のおにぎり屋さんで適当に買ってきた。


ラップを解いて大きく頬張る。一口で半分程口に入れて、米と味の濃いしぐれ煮を口の中で味わう。


疲れた体に染み渡る。そうすると、今度は汗で体に引っ付く下着が気になってくる。


勢いのままにもう一口、さらに一口でおにぎりは無くなった。

もう一口水を飲む。


標高はそこまで高くないが、吹く風が気持ちいい。随分歩いてきたので、遠くの建物も見えない。


緑と、青と、列をなして並ぶ鉄塔がどこまでも続いている。


ベンチの横にある、小さな箱。

中を開いて、引き出しを開けると、そこにはボールペンと、1冊のノートが入っている。

登山ノートだ。


栞のはさんである所から開く。

1番最後の書き込みは

「7/27 始めてきました 思ったより長い!」

全く同感だ。こいつは私なのかもしれない。


置いてあるボールペンで書こうとしたが、インクが出ない。

仕方なく自分のペンをとりだして

「8/1 ↑同感」

と短く書いた。




1つ前のページをめくる。

「7/23 彼女と登りました」


「7/15 ダイエット頑張ります!」


「7/13 〇〇県から来ました!凄い良い山です」


と、各々が書きたいことを書いている。


さらにページをめくる。

7/2の書き込みの一個上、他よりも濃いインクで日付の無い書き込みを見つける。


「のどがかわいた 水が欲しい」


達筆気味だが、どこか丸っこい字だ。年齢の特定は出来なさそうだ。


さらに1ページ前に捲る。そこにも、同じ濃さのインクで、日付の無い書き込み。


「のどがかわいた 水が欲しい」


近くの書き込みは、この浮いてる書き込みに反応してない。

だいたい6月の頭だろうか。


さらにページを前に捲る。


また見つけた。今度は5月の頭。


「のどがかわいた 水が欲しい」


書き込みは全て、1行から2行ほど開けて次の書き込みをしている。

この奇妙な書き込みは、その開けた間に割り込むように書かれている。



ページを、最新の所までペラペラと戻る。


やっぱりある。

「7/27 始めてきました 思ったより長い!」

「のどがかわいた 水が欲しい」

「8/1 ↑同感」


まるで私が喉が渇いてるみたいでは無いか。

余計な割り込みにムッとする。



横風が吹いて、飛ばされそうになる帽子を抑える。

ページが先にパラパラとめくれる。


ノートの空白が、次々と進んでいく。


慌てて手で抑えて止める。汗で滲んだ手のせいで、変な跡がついてしまった。

止まったページには、何も書かれていない。


安堵して、ページを元に戻す。さっきまで余白だった所に、ずらりと文字が並んでいる。


「7/27 始めてきました 思ったより長い!」

「のどがかわいた 水が欲しい」

「8/1 ↑同感」

「のどがかわいた 水が欲しい」

「のどがかわいた 水が欲しい」

「のどがかわいた 水が欲しい」

「のどがかわいた 水が欲しい」


全く同じ濃さ、全く同じ文字の形。判子みたいに並んだ文字は、生きてる感じはまるでしない。


水筒を取りだし、蓋を開ける手に少しだけ水を出して、ノートのページに掛けた。


濡れて縮み、柔らかくなるノート。滲んでいく文字。

それでも、水の字だけは、形を変えずにそこにある。

水筒の水を飲んで、喉を潤す。

なんだか、さっきより美味しい気がする。

こいつも喉が潤ってればいいが。


ノートを閉じる。

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インビジブル・イナニメイト 杏酒 @Anzsake

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