第3話 『禍』
いよいよ個人タクシー開業の準備を開始しようとした矢先、時代は大きな転換期を迎えつつあった。
世間では「ライドシェア」や「セダン特区」といった、白ナンバー車両による旅客輸送の議論が本格化し、タクシー業界のビジネスモデルそのものが問われ始めていたのである。
個人タクシー事業は、高い専門性と引き換えに大きな先行投資を伴う。
合格後の事業譲渡費用、車両や設備の購入費用、さらには組合費などの継続的なランニングコスト。
これらは全て、個人事業主としての責任とリスクだ。
一方で、法人タクシードライバーは、会社が用意した車両と設備で、文字通り「体一つ」で営業が可能である。
この大きな時代のうねりの中で、私は決断を一時保留し、法人での勤務を続ける道を選んだ。 この変化が、業界にどのような影響をもたらすのか。
規制緩和が、個人タクシーの門戸を本当に広げるのか。
その行方を見極めることが、次のステージに進むための最善策だと判断したからだ。
すべてが順調に思えていた。
だが、不穏な影は、すでに足元まで忍び寄っていた。
日本中が浮かれていた。
二度目のオリンピックがやって来ると。
しかし、その熱狂を一掃するように、信じられない現実が押し寄せた。
「コロナ禍」。
「緊急事態宣言」、「不要不急の外出を控えろ」。
在宅勤務、リモート作業。
人と人との距離を引き裂く言葉が、次々と突きつけられた。
夜の銀座。
かつては光と声に溢れていた交差点に、人影はほとんどなかった。
ネオンは消え、ビルの窓は真っ暗。
タクシーを流しても、客は一向に現れない。
空車ランプだけが虚しく赤く光り、街の静けさを照らしていた。
走っても、走っても、誰も手を挙げない、人がいない…。
この状況を見極める。そう決めたはずだった。しかし、この信じられない光景は、もはや私の想像を超えていた。
(一期一会、なんて言葉があるけれど──そもそも「会う」ことすらない夜が続いていた。)
そんなある日、営業所の玄関に「閉鎖のお知らせ」と書かれた貼り紙が掲げられた。
その数日後、一本の電話が鳴った。
「すまない。もう、会社を畳むしかない」 所長のかすれた声は、どこか諦めを通り越した静けさを帯びていた。
慣れ親しんだ場所に、もう帰る場所はない。
(“一期一会”の舞台そのものが、音もなく、静かに消えてしまった…)
この状況は、ともこさんのお店も同様だった。
閉店を余儀なくされ、テイクアウトのお弁当を作り、販売という形態に変えていた。
ユッコママ、あやかさんの銀座のお店はかろうじて、常連のお客さんたちが支えてはくれていた。
皆がそれぞれの場所で耐え忍んでいた。それは、一人ぼっちではないという、かすかな安堵でもあった。
下手に動くことは文字道理、命取りになる。
今は皆、ひっそりと、静かにこの禍が通り過ぎるのを待つしかない。
街はまだ眠りについていた。
煌めくことの多かった通りも、今は看板の灯りを落とし、ただ風が吹き抜けるばかりだった。タクシーの行燈も、行き交う人影もない。交差点の信号が、むなしく赤と青を繰り返している。
その暗さの中で、ひとつだけ光があった。
店先にともる、小さな灯り。
(――静まり返った通りに、小さな光がひとつ。それは、ともこさんのお店だった。)
閉店後も、翌日のテイクアウトの準備のために、彼女はただ一人、ひっそりと灯りをともしていたのだ。まるで、それだけで十分だと言うように
一期一会 ~タクシードライバーが紡ぐ、道の行方~ ワイドット(Y.) @Ydot1315-2
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