【五】笑いと祟りのはざまに棲むもの

 狸という存在は、日本各地の伝承において、時に人々を笑わせ、時に人々を恐怖に陥れてきた。分福茶釜に代表される滑稽な姿で笑いを振りまくかと思えば、粗末に祀られた祠の跡から災厄が始まることもある。こうした両義性は、単に“善と悪”の二面性とは言い切れない、より複雑な位相を帯びている。


 私はこのテーマをもって各地を取材する中で、狸の「笑い」と「祟り」を明確に切り分けることの難しさに幾度となく直面した。ある土地では笑い話として語られているものが、別の土地では不吉な前兆として捉えられていたりする。たとえば、狸に道を迷わされた経験を「いやぁ、おかしな話でしてね」と語る者がいれば、同じような状況を経て「たたりじゃ、あれは……」と青ざめた表情で口をつぐむ者もいる。


 こうした取材を重ねるなか、ある年配の男性の言葉が、私の心に深く残っている。


「狸はな、人を笑わせようとしたのか、怒って祟ったのか、誰にも分からん。あれは“人の心がどう映るか”で決まるんだ」


 その言葉は、狸という存在の本質を突いているように思われた。狸が見せる振る舞いが笑いとなるのか、それとも祟りと受け取られるのかは、状況や被害の程度だけでなく、受け取る側の心象や倫理観、さらにはその土地がもつ文脈に強く依存する。

 つまり、狸は「どう映るか」そのものが意味を持つ存在なのだ。


 この「笑い」と「祟り」の境界線があいまいなまま保たれているからこそ、狸は人々の想像力の中で生き残り続けているのではないか。もし狸が、単なる福の神か、あるいは恐怖の怪異か、どちらかに単純に定義されていたならば、これほど長く、そして多様に語り継がれることはなかったはずである。

 狸の話は、個人や集団の記憶に対して選択的に作用し、ときに事実の構造そのものを揺さぶってしまう。


 狸が現れる状況は、決して偶然ではない。それは人間が「境界」に立たされた瞬間――すなわち、道を踏み外し、常識や日常と異なる領域に足を踏み入れた瞬間に顕現する。そしてそこでの出会いが「笑い」へと転ぶのか、「祟り」として刻まれるのかは、まさに“その人間がどう在るか”によって決まるのだ。


 狸が持つこの「境界性」は、今なお多くの人々の心の中に根づいている。近代化や都市化が進んでも、たとえば地方の山裾で偶然出会った祠や、整地されたばかりの住宅地の一角に残された石碑、あるいは都市の裏通りに漂う奇妙な空気のなかに、私たちは無意識のうちに“何かがいる”気配を感じとる。そこに宿っているのが、まさに“狸”と呼ばれる存在なのである。


 笑いという文化の中に潜む異質性と、祟りという畏怖の記憶。この二つを自在に行き来する存在としての狸は、人間社会の「構造のゆらぎ」を象徴する存在だとも言える。つまり、狸とは、私たちが作り出した「社会的秩序」と「非秩序」のはざまを、生き生きと動き回る象徴なのである。


 本章では、そうした狸の両義的な性質を浮かび上がらせることを目的とし、古くからの伝承のみならず、現代における証言や体験談も踏まえて構成してきた。

 私たちが日々暮らすこの世界にも、狸のような“境界の精霊”がいまだに息づいており、ときに人間の行いに反応し、笑わせ、からかい、そして怒る。そのような視点をもって周囲を見渡すとき、私たちはこの世界の輪郭が、決して単純ではないことに気づかされるだろう。

 狸は、「善悪を超えた存在」ではなく、「善悪そのものを試す存在」なのである。

 そして、何より重要なのは、狸という存在をどう捉えるかによって、私たち自身の心が試されているという事実だろう。人間の側にある欲、羞恥、傲慢、そして時に信仰や謙譲の念。それらが、狸のふるまいに影響を与え、物語の結末を決定づけるのだ。

 だからこそ、狸は現代でも語られる。

 そして、これからも語られ続けるだろう。


 次章では、こうした狸譚の語られ方そのものに焦点を当て、「証言」と「化かし」のあいだにある不確かさ――狸がいかにして人間の記憶や記録を攪乱し、“わからなくしてしまう”のかという問題へと踏み込むこととしたい。私たちは本当に、狸を「見た」と言えるのだろうか? それとも――。

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