【三】笑いと死の狭間に棲むもの◇取材記録:峠の低音と“普段着の影”
■取材記録:峠の低音と“普段着の影”
【取材日】令和四年十一月
【聞き取り対象】T氏(五十五歳・林業従事者)
T氏は、生まれも育ちも北関東の山間部。高校卒業後からずっと林業の組合に所属し、現在も山仕事を続けているという。聞き取りは晩秋の作業小屋で行われた。小雨の降る昼下がり、鉄製のストーブの上で湯を沸かしながら、T氏は言った。
「今でも耳に残ってる。音が、ね。太鼓の音がするんです」
現場は、群馬と長野の県境に近い旧集落跡。昭和の終わりにダム建設計画で全戸が移転し、結局ダムは中止となったまま、廃村だけが取り残されているという。
「うちの組合があの山に入ったのは、もう十年以上前になるかな。いまは誰も住んでないけど、地形がいいんで材が出るんです。あの日も遅くまで作業して、日が暮れてから軽トラで山を下りてた。霧が出てて、カーブの多い細い道を慎重に進んでいたんですが……いきなり聞こえたんですよ。“ドン……ドン……”って、腹に響くような音が。最初は重機の振動かとも思ったけど、違った。あれは……和太鼓です。間違いなく」
エンジンを切って耳を澄ましたT氏。規則正しく、ゆっくりとした太鼓の音が、霧の中を潜って届いてくる。
「……そのときです。ヘッドライトの先に、人が立ってた」
藪の手前に立っていたのは、T氏と同じような作業着を着た男だったという。紺色の上着、ヘルメット、長靴。服装に見覚えがあったので、ふと見たその顔の印象はなく、ちらりと見えた目がただ恐ろしかったという。
「……目がね、真っ黒だったんですよ。光が反射しない、っていうのかな。目というより、穴が開いてるみたいだった」
その男は、何も言わず、道の脇の草むらに足を踏み入れ、ガサリと音を立てて藪の奥へと消えていった。あきらかな質量をともなって、バサバサと。
「翌朝ですよ。組合の人間が亡くなったって連絡が入って。下流の町に住んでた年配の職人で、その日、現場に来てたんです。昼すぎに林で倒れて、心臓だったと。……俺が見たのは、その夜なんですけど、たぶん、その人の格好とまったく同じだった」
それ以降、T氏が仕事終わりに その峠道を通りかかるとき、稀にあの太鼓の音がするようになったという。いや、聞こえる気がしてならない、という言い回しのほうが近い。風が強い日や、霧の濃い晩。忘れた頃に、「ドン……ドン……」という音が、耳の奥で鳴る。
「ある夜は、ランドセルを背負った子供が歩いていたんです。夜の林道を。別の夜には、サラリーマン風の男が、そしてまた別の日は、腰の曲がった婆さんが。みんな、真夜中なのに明かりも持たず、山にくるような格好じゃなくて…普通の服装で、黙って、林の奥にガサガサ入っていく。ヘッド・ライトの先にそれが見えたとき、毎回、うわって声が出るくらいむちゃくちゃびっくりします。それぞれは数か月くらいは空いていて、忘れたころに見てしまうんです。そうすると、数日中に町で誰かの訃報が届くんですよ。ちょっともう最近は怖くて、夜にならないように帰ることにしました」
その話を仲間にしたところ、その旧集落出身の職員に「それは狸囃子だな」と返されたという。
「狸は人を化かすだけじゃない。村の外れで太鼓を打って、死を知らせる。それが昔の村の言い伝えだ、って」
つまり、あの太鼓は葬列の先導なのだ。林に吸い込まれていく普段着の影たちは、狸が見せる「仮の姿」。その夜に死んだ者、あるいはこれから死ぬ者の「代役」――そう言われた。
T氏は最後に、少し間を置いてこう言った。
「もうね、あの“ドン……ドン……”を聞くのが怖い。音がした瞬間、誰かの死が、もう始まってるんですよ」
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狸の囃子が「死を告げる音」であるという民間伝承は、古くから各地に存在している。本節でも触れたように、狸の腹鼓が葬列の太鼓と結びつけられる例は少なくない。滑稽な音とされがちな腹鼓が、実は「境界を渡る音」であったことが示唆されている。
本件で注目すべきは、音だけでなく、視覚的に現れる“人影”の存在である。それらは生者と見まがう普段着の姿でありながら、どこか輪郭が曖昧で、顔の表情が欠けている。狸が「死の代役」を演じているという観念は、四国や佐渡の伝承にも類似例が見られる。
また、死の予兆として太鼓の音や影が現れるという構図は、狸譚に特有の「両義性」――すなわち、笑いと祟り、現世と異界、音楽と恐怖といった両極の混在をよく表している。狸は、人の死という境界の只中に音を響かせることで、その存在を「音の影」として浮かび上がらせているのかもしれない。
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