◇取材記録:深夜タクシーの客
■取材記録:深夜タクシーの客
【取材日】平成二十九年七月
【聞き取り対象】匿名(六十代男性・タクシードライバー)
この証言は、都内で長年タクシー業に従事してきた男性から得たものである。夜勤専門の彼は、「深夜は変な客が多い」と前置きしたうえで、それでもあの一件は彼の体験の中でも“別格だった”と話してくれた。
「新宿で乗せたんですよ。スーツ姿の中年男で、最初は何の変哲もない、普通の客だと思いました。ちょっと顔色が悪いというか……肌が灰色っぽかったのは覚えてます。『奥多摩の山奥まで』って言われたときは、正直少し引っかかりました。深夜1時を回ってたんで。でも、まぁ珍しい話じゃないし、走り出したんです」
走行中の会話は、ごく他愛のない世間話だったという。しかし、しばらくすると様子が変わり始めた。
「こっちが『今日はお仕事ですか?』って聞いたんですよ。すると、窓の外を見ながらボソッと、『今夜は人に化けてるんだよ』って言ったんです。冗談にも聞こえない、すごく静かな声で。低くて……冷たかった」
一瞬、車内の空気が変わった気がしたという。咄嗟にバックミラーをのぞいた――が、そこには誰もいなかった。
「後部座席、空っぽだったんです。さっきまで人が座ってたはずなのに。それで、よく見たらシートに、葉っぱが一枚。乾きかけた、焦げ茶色の。見た瞬間、なんとも言えない寒気が背中を走って……エアコンのせいじゃない、もっと底冷えする感じでした」
その後、車を路肩に停めて一息ついたという彼は、その夜、勤務を切り上げて早退したそうだ。
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都市のタクシーという密室に、狸が乗り込む――この話は一見、滑稽な“怪談的創作”に思えるかもしれない。だが、ここには明確な「風説の地形」がある。
まず第一に、新宿から奥多摩へ向かう深夜の車内という地理的・時間的状況である。ビル街の人工光に照らされた繁華と、漆黒の山間を隔てる峠道。その途中に広がる漠とした闇は、まさに「都市と異界の接点」としての境界地帯にあたる。狸がかつて棲んでいたのは“村の外れ”であったが、現代においては、こうした都市と山の“あわい”が新たな異界となっている。
第二に、「化けている」という自己申告が興味深い。この男は、自らが“化けている”と語った直後に消える。これは、狸がしばしば「語りのなかで自己開示する」という伝承の型を踏襲している。姿を見せずとも言葉で正体を告げる――この言葉そのものが化かしのトリガーとなっている可能性がある。
そして最後に残されたものが、「葉っぱ一枚」である。
狸の葉っぱといえば、貨幣に化かして人を騙す“葉っぱ金”のイメージがあるが、本件では金銭ではなく、痕跡としての葉が残された。これは、存在の代替、すなわち「誰かが確かにここにいたという証拠」でありながら、それが本当に人間だったかどうかを問う“静かな異議申し立て”でもある。
もしこの葉が、異界と現世をまたぐ“通行票”のようなものであったなら。あるいは、あの男が一度だけ「人の姿を借りていた」証であったなら――。
その葉は、どこから来たのか。
そして、どこへ帰っていったのか。
狸は、山野の主であると同時に、「都市の裏」に潜む者でもある。深夜、密室、無言、移動、そして気づけば消えているという構造は、都市怪談の基本骨格とも一致しており、狸譚がいかに現代の語り口に“最適化”されているかを示す。
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