第一章:境界に現れる狸
【一】境界の民俗学
妖怪譚の多くは「境界」において発生する。これは民俗学において繰り返し指摘されてきた基本的事実である。村と村の境、山と里の境、川を跨ぐ橋の上、あるいは人の生と死の境――人間が空間や時間の「切れ目」に不安を抱いたとき、その裂け目を埋めるかのように異界の存在を見出した。
私たちが妖怪譚を語るとき、実際に語っているのは「境界の物語」であるとすら言えるだろう。
なぜ境界が恐れられるのか。それは、境界が秩序の外縁だからである。村の中は人の社会であり、掟や共同体の仕組みによって守られている。だが境を一歩越えれば、そこは共同体の法が及ばぬ場所となる。山野は神の領域であり、川の向こうは他者の世界、夜半の道は死者の霊がさまよう場所であった。境界は安全圏と危険圏を分かつ線であると同時に、両者をつなぎ合わせる接点でもあった。
そのため、そこに妖怪や精霊が棲みつくと考えられたのである。
――「峠に出ると、狸に惑わされることが多かった。里の者が夜遅く山を越えると、必ず同じ場所に戻ってきてしまう。境を越える者を狸が試すのだと、昔から言われた」
『阿波山村聞書』昭和二十八年版(徳島県三好郡・古老の語り)
狸はその典型例として知られる。古典文献に記された狸譚の多くが、峠や橋、村はずれといった境界の場に登場する。日暮れ時に山道を歩く旅人を惑わせ、同じ道をぐるぐると歩かせる。あるいは唐突に奇妙な音を響かせて人を怖がらせる。これらは一見すれば単なる悪戯に過ぎない。だが、境界を越え、時に不用意に外に出た人間に対する警告としての意味を帯びていた。人間社会の秩序からはみ出した者に「恐怖」というかたちで代償を与える、そうした境界的機能が狸譚には潜んでいる。
特に「狸囃子」と呼ばれる現象は有名である。江戸時代の随筆『耳袋』には、夜中にどこからともなく笛や太鼓の音が響き、人々を不安にさせた例が複数記録されている。狐火と混同されることも多いが、狸の場合は「囃子」としての音楽性を伴う点が特徴的だ。しかもその囃子は、しばしば祭礼の音楽と区別がつかないほどに整っており、祭りと怪異の境を曖昧にしてしまう。
狸囃子の音源はどこにあるのか、村人が耳を澄ましても、その正体を突き止めることはできなかった。山の木霊かと思えば近くで鳴り、近づけばまた遠ざかる。笛や太鼓のように響く。これは狸の得意芸とされる「腹鼓」と結びつき、人々に「狸が祭りをしている」という想像を呼び起こした。祭りの夜、遠くの山から聞こえる得体の知れない囃子が、狸の仕業だと囁かれたのである。
――「夜半、海風にのって囃子の音がきこえる。誰かが祭をしているかと耳をすませば、腹鼓のように響く。人はこれを“狸どもの宵祭”と称した」
『佐渡郡是書』大正九年刊
この「囃子」は境界の二重性をよく示している。一方では人を恐れさせる怪異であり、他方では祭礼の楽しさと重なり合う。つまり狸は、人間にとって神聖な祝祭と、恐怖すべき異界とのあわいを攪乱する存在であった。彼らは境界を超える者に警告を与えると同時に、人間社会の秩序の側からも、その外縁を揺るがす役割を担っていたと考えられる。
こうした狸譚は、単に「山の怪談」として語られるにとどまらない。都市の郊外や村落の境にも現れ、人々の生活圏そのものを侵犯していった。例えば、江戸近郊の農村では、夜更けに帰宅する者がしばしば狸囃子を聞いたといい、その不気味さから「夜歩きは慎め」という戒めとして伝えられた。これは「秩序を越えてはならぬ」という共同体の掟を補強する役割を持っていたのである。
――「夜更けに帰途の農夫、囃子の音に誘われ川辺を彷徨す。翌朝、濡れ鼠となり発見された。村人は“狸が川辺に引き込んだ”と噂し、以後の夜歩きは固く戒められた」『筑後新聞』明治二十九年十月六日付 (福岡県八女郡の記事)
また、狸譚は時間的な境界にも関わる。黄昏や丑三つ時といった、昼と夜、眠りと覚醒の境界にしばしば現れる。昼間には姿を見せず、夜にのみ現れることで、人間の認識を撹乱する。朝と夜の狭間、死と生の狭間――狸はそのすべてにおいて、あやふやな時間の切れ目を体現していた。
――「丑三つ時になると、囃子が畑の畦から聞こえた。朝には消える。祖父は“あれは境目の時間に狸が遊んでいる”と言った」『丹波口承譚集』昭和三十九年刊 (京都府丹波地方・採録)
さらに言えば、狸譚の「境界性」は社会的な次元にも及ぶ。村の外れや橋のたもとに屯するのは、社会の周縁に追いやられた者たちである。浮浪者、放浪芸人、あるいは異郷から来た旅人。狸は彼らの姿と重ね合わされ、人々の目には「境界に棲む者」として映った。そこに「異質なもの」「外部のもの」への不安が投影されていたのである。
――「旅芸人が来ると狸囃子が必ず響いた。村人は“一座の中に狸が化けている”と噂した」
『佐渡口碑録』昭和十五年版
―― 「松前の市に芝居小屋が建つと、夜半に腹鼓の音がした。人は“和人の芸に惹かれた狸の仕業”と噂した」
『蝦夷地奇談集』明治三年刊
このように見ていくと、狸とは単なる動物や怪異の象徴ではなく、人間が「境界」そのものを理解しようとした痕跡であった。境界は常に危険でありながら、同時に魅惑的でもある。人は境界を越えたいと願い、越えてしまった者を恐れ、そしてその行為を物語として残した。狸は、その葛藤の結晶体として民俗に刻まれたのである。
もっとも、この境界の民俗学的機能は時代とともに変容していく。近代以降、都市の拡大と交通の発達は、かつての境界を押し広げ、あるいは消し去っていった。だがその一方で、新たな境界が生み出される。
都会のビル街と郊外の林、住宅地と空き地、現実と虚構。
狸はそこで再び顔を出すのである。そうした姿は、本書の後章で扱う「都会に棲む狸」や「メディアに現れる狸」の事例において、より具体的に見ていくことになるだろう。
要するに、狸譚を理解するとは、境界の物語を理解することである。境界は恐怖の源泉であり、祝祭の舞台でもあり、人間の想像力を試す場所でもある。狸はその只中で、笑いと不安、秩序と混乱、神聖と俗なるものを往還する存在として描かれてきた。だからこそ彼らは今なお生き続け、現代人の耳に「狸囃子」として囁かれるのである。
――「高松市郊外のS町にて、夜半より囃子の音が山間にこだまするとの通報が相次いだ。警察官が現地に赴き確認したが、周囲に祭礼や楽団の活動はなく、不審の形跡も認められなかった。ところが近隣住民は一様に“あれは狸の祭りだ”と語り合い、子供たちは翌朝、囃子が聞こえたという方角に向かって
『讃岐民報・夕刊』昭和三十四年九月二日号
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