3

 目的を持って夜半に家を出たことは初めてで、街灯だけが照らす隘路を進んでいると何かを掛け違えたような違和感を覚える。いや、夜だけのことではないのだろう。誰かのために出掛けたことが、もう遥か遠い昔のことのように思える。

 あの頃もそうだったと、思い出す。月へと飛び立ってしまった、彼女と出会っていた時も、僕たちはこうして真夜中に会い、話をしたのだ。

 僕たちは十三歳で出会い、そして十四歳の冬に彼女は月へと飛び立った。何も告げず、哀しみのように密やかに。

 どうして、彼女は何も言ってくれなかったのだろうか。それは、白野四季という人間に課せられた罪悪であり、呪いであり、命題であるかのように、未だに剥がれず心の底にこびりついている。僕が彼女に対して抱いていた好意は、どこまでも独りよがりで一方的なものに過ぎなかったのだろうか。

 さよならの一言で良かった。それだけでも与えてくれていれば、僕は救われていたのに。呪われることは、なかったのに。

 怨嗟とも、哀願とも言えるその声が彼女に届くことはもうない。彼女はもう、月世界へと行ってしまったのだから。

 月行病は人を月へと誘う。けれど、その引力は必ずしも絶対的なものというわけではなく、無重力の中を揺蕩い、本当に月へと到達することはない。ルイ・アームストロングも月面探査機も、月面において人骨を見つけていないのはそれが原因だ。月を目指すように飛び立っていった人々は、しかし本物の月へと行くことは出来ない。宇宙という暗闇の中に、ただ消えていくだけだ。

 けれど、僕は彼らは月に行くことが出来たのだと、そう思う。この場所から見える、空に浮かぶ月にではないのかもしれない。けれど確かに、彼らが信じた月世界へと行くことは出来たのだと、信じてる。それは、努力は必ず報われ、正義は必ず勝つといったような、現実を見ることが出来ていない理想なのだろう。それでも、そう思わなければ彼らが、彼女が報われないように思えてしまうから、僕は願う。彼らの飛び立った先に月世界があるのだと。

 月を見上げる。果てしなく遠く、どれほど手を伸ばしても届かないそれは、世界を静かに見下ろしている。僕は月のことが好きになれない。けれど、そこが素敵な場所であれば良い。そう思いながら、月光が照らす道を歩いて行く。一歩ずつ、ゆっくりと。

 暗い階段は、昨夜も歩いていたお陰でもう転ぶようなことはなく上り切ることが出来た。この先に何があるのか、誰が待っているのかを知っているからこそ恐怖も既になく、落ち着いたまま進むことが出来る。暗闇は、人間に根源的な恐怖を覚えさせるものだ。それなのに、僕は自分でも奇妙だと思えるほどに怯えなく歩くことが出来た。それはきっと、暗闇に対してよりもこれから向き合う月行病に対する恐れの方が僕の中では質量を持っているからなのだろう。

 何をするべきかは、決めている。それが上手くいくか行かないかは別として、僕に出来ることはそれよりほかにないのだから、失敗をすることは覚悟していた。むしろ、そうなることが自然であると考えるほどに。しかしそう覚悟をしていても、恐ろしいことに代わりはなかった。今、この機会を逃してしまえば、もう二度とこの悔悛を拭うことは出来ないのだということがいやというほど理解出来ていたから。

 階段を上り切り、歩いたところで視界が開ける。そこに居る少女の姿は、まだ宙に浮かんではいなかった。月行病は、夜が深まるにつれ罹患者の身体から重力を奪い、月へと向かわせる。日が変わったばかりのこのタイミングでは、まだ何も起こらない。彼女は僕の姿を視認し、小さく手を挙げた。

「こんばんは、でいいのかな。なんだか、そう言うのも違うような気がするけど」

「昼間でも同級生にはこんにちはなんて言わないだろ。そんな堅苦しい態度を取らなくていいよ」

「それもそっか。なんていうか、ちょっと緊張しててさ。人の前で浮かぶのって、初めてのことだから」

 昨夜、僕は彼女が浮かんでいる姿を見ている。けれど、偶然見られた状態と、意識的に見せるのでは大きく異なる意味合いがあるのだろう。一度見られてしまったとはいえ、暴かれてしまったとはいえ、月行病が彼女の秘密であることに代わりはないのだろうから。

 昔のことを思い出す。彼女もまた、浮かんでいる姿を見られることは、少しだけ恥ずかしいと言っていた。月へと飛び立とうとする姿は美しいものだと、僕は思う。それに、疚しいことをしているというわけでもない。それでも実際に月へと飛翔していく人間がその姿を見られることに抵抗があるのは、月行病には当人にしか分からない精神作用があるのかもしれない。

「それで、白野君の言ってた可能性って、どういうものなの」

 芥生さんは直截的に昼間の会話の続きを始める。それほどまでに、解決策を求めているということだろう。彼女はやはり、月へと行きたくないのだ。この世界に留まっていたいのだ。

 僕は少しの間考えてから、改めて思考を纏めながら口を開く。

「芥生さんは、月行病についてどれくらいのことを知ってる?」

 直截的に尋ねられたように、僕もまた直截的に答えるべきだったのかもしれない。けれど、順を追って説明をするのが、僕の癖だった。そうしなければ、大事なものを見落としてしまうような気がするから。

『四季君の説明は迂遠過ぎる時があるよ』

 かつて言われた言葉を思い出す。彼女の言葉をきっかけにして僕は自らの悪癖を知ったけれど、知ったところで治すことは出来そうになかった。これは、僕という人間に刻み込まれた宿痾のようなものなのだろう。

「月に向けて人が浮かんでしまう病気である、っていうことくらい。あとは、悪魔憑きだとか、そんな情報ばっかかな」

「情報以外に、症状については?」

「月に向かって浮かんでしまうことと、それから身体が透過していくこと、かな」

「そうだな。僕が知っている情報と殆ど変わりがないよ」

 身体の透過。これこそが、月行病が不治であり、止めることの出来ない病である原因だった。

 浮かんでしまうだけであれば、何かで繋ぎ留めておけばいい。あるいは、屋内に居れば天上より上がることはない。極めてシンプルだけれども効果的なこれらの方法では、月行病の人間を止めることは出来ない。彼らは何かに縋ることすらも叶わずに、抵抗すらも出来ないまま浮かんでいくことしか出来ない。

 月行病の人間が月へと行かずに済む方法を模索するのであれば、大きく分けて二通りの方法があるだろう。症状を治すという方法、そして症状を受け入れたうえでこの世界に繋ぎ留めておくという方法。しかし、前者は未だ確立していない方法であるし、そもそも月行病という病がどうして発生するのかすらも解明されていない以上は模索のしようがない。

 残された選択肢は、症状を受け入れたままで繋ぎ留めておくという方法しかない。本来、掴むことすらも出来ない人間を繋ぎ留めることなど、空想に近い。しかし何も出来なかった過去の中でひとつだけ、僕は可能性を見出すことが出来ていた。あれが、ありもしない希望に縋った果ての幻想でなければ。

「月行病の人間はあらゆるものを透過する。何かに掴まって逃れようとすることは出来ない。ただ、僕は一度だけ、月行病の人間に触れたことがあるんだ」

「それって――」

「ああ。もしもその条件が何かを明確にして、再現をすることが出来るようになれば。引き留めることが出来るかもしれない」

 あの瞬間、僕が月行病に近付いたのか、それとも彼女が浮かびながらも実体化したのかは分からない。確かなことは、僕が月行病の人間に触れることが出来たということだけだ。

 ならば、彼女が物に掴まることが出来ずとも、僕が彼女を掴んでいればいい。僕が地球と彼女を繋ぐ、楔になればいい。

 ともすれば、あれは条件が揃った時に起こるようなものではなく、奇蹟と呼ばれるような偶然が引き起こしたことであり再現をすることなど出来ないのかもしれない。しかし、試すだけの価値はあるはずだ。言い換えれば、それくらいしか縋ることの出来る可能性がないという話でもあるのだけれども。

 芥生さんは思案するように静かに僕の言葉を受け止め、それから間違えていないかひとつひとつ確認をするように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「確かに、もしも白野君の言う通り私を掴むことが出来るなら、引き留めることが出来るかもしれない。でも、それってかなり危険だよ」

「危険? どうして?」

「君がもし、私の手を掴んだまま取り返しがつかないほどまで浮かんでしまったらどうするの? 手を離して、それで解決するならいいけど月行病が感染するようなかたちだったとしたら?」

 確かに、月行病の人間に触れることが出来るという状況はそれがどのような原理によって引き起こされるものであったとしても、リスクを孕んでいるものだ。僕は撃たれた鳥のように墜落をして死ぬかもしれないし、月行病に誘われるまま月世界へと飛び立ってしまうかもしれない。けれど。

「それでも、他に方法はないだろ。試せるだけ試すしかない。それに、そうしないと、駄目なんだよ。今度また見過ごすようなことになれば、僕は僕を許せない」

 このまま何も出来ず、惰性的に生き続けるのは、死に続けることと同じだ。月に手を伸ばした先にあるものは、溺れるだけなのかもしれないけれど、それでも僕は手を伸ばしたい。それが結果からしてみれば無意味なことであったとしても、祈ることに意味があるのだと思うから。

 芥生さんはすぐに頷くようなことはせず、静謐の中に佇んでいた。彼女はきっと、僕を巻き込むことの是非について考えているのだろう。それは、優しさと呼ぶべきものなのだろうか。それとも弱さと呼ぶべきものなのだろうか。

 誰だって死ぬことは怖い。けれど、それと同じくらい他人を損ねることは恐ろしいことだ。意識的に他人を巻き込み、傷付け、果てにはその命まで奪うにはある種の強かさがなければならない。それが例え、自らの命が係った問題だとしても。

 もしも僕が芥生さんの立場なら、他人を踏み台にすることが出来るだろうかと考えて、意味のない問いかけだな、と思う。僕の場合、弱さや強かさという問題ではなく、生に対する執着がなかった。他人を巻き込んでまで生にしがみつく理由がないのだ。

「本当に、いいの?」と芥生さんは硝子細工を持つような慎重さで僕に問いかける。

「私は、自分が死ぬのかもしれないと思って、死んだらどうなるのかなって考えた。何となく死ぬことについては考えてたつもりだったけど、それがいざ自分に迫ってるものだって知ったら、怖くて堪らなかった。君のその感情は、一時的な揺らぎのような刹那的なものじゃなくて、心の底から思っていることなの? 後悔は、ないの?」

 人は生きていれば死に、死という言葉に触れることになる。液晶越しに、テキストとして、事実として。けれど、それは所詮知識としての死に過ぎず、経験として実感を伴った死とは大きくかけ離れている。

 想像や虚構ではなく、真実の死の温度は言葉で言い表すことが出来ない恐ろしさを持っている。暗く、冷たい、全くのゼロ。僕は二度、その端に触れた。母が死んだ時と、彼女が月へ行ってしまった時。しかし、それもまた本当の死ではなく、他人の死に過ぎない。自分という存在の完全なる消失とは別の痛みなのだろう。

 それでも本当に、僕には死ぬ覚悟があるのか。月へと行ってしまう覚悟があるのか。迷う必要はなかった。

「後悔はないよ。何もしない方が、よっぽど最悪なんだ」

「……なら、お願い」

 躊躇いのない僕の答えに、彼女は静かに頷いた。それは僕の決意を受け取るという、僕を意識的に利用しようというひとつの覚悟の現れだった。

「ただ、他の方法も考えようよ。もしかしたらもっといい方法があるかもしれないんだから」

「そうだな。これだけじゃ頼りないし、何より最善は月行病の完治だ」

 僕の案は、仮に上手くいったとしても月が浮かぶ度に僕が彼女を引き留め続けなければならない。毎晩のように付き合う覚悟はあるけれど、それが現実的ではないことは未来が未だ現実的な触感を持っていない十七歳でもぼんやりと理解することが出来ていた。可能ならば、他の方法を模索するべきだ。

「取り敢えず、今は僕が君に触れられる方法を考えよう。とは言っても、あの時触れることが出来たのも偶然みたいなものでさ。具体的にどうすればいいのかってこともまだ分からないんだけど」

「えっと、じゃあ今のところの推測でも良いから教えてほしいんだけど、どうして君は月行病の人に触れることが出来たと思う?」

「そう、だな」

 思い出す。かつて時間を、秘密を共有していた彼女のことを。

 僕と彼女の境界線は、溶けたかき氷のように曖昧なものだった。まるで二人で居ることで一人の完成された人間になるように、僕たちはあらゆることを曝け出し、共有し、慰め合った。母の死を他人に告げたことは、彼女が初めてだったし、これからももうないことなのだろうと思う。

 確か、母の話を吐露したのは、夏の校舎裏だった。授業をサボタージュして、陽射しから逃れるように冷たいコンクリートに凭れながら話をしていた時のことだ。彼女は僕の話を静かに聞いて、そして何も言わなかった。ただし、その沈黙は無関心というよりも沈黙こそが答えであるという選択であり、僕にとってはそれ以上嬉しい答えはなかった。安っぽい憐れみが欲しかったわけではない。傍に居てくれるだけで、良かったのだから。

 その後、どのような話をしていたのだろうか。思い出そうとしたところで、彼女の声を既に再生することが出来なくなっていることに気が付いた。話の内容は、覚えている。覚えているはずだ。けれど、どのような声で言っていたのかが分からない。脳内に過るものはテキストとしての言葉に過ぎず、声はぼんやりとした輪郭だけを残して波に攫われたように消え去ってしまった。

 頭の中にゾッとするほど冷たいものが走った。僕は本当に、彼女のことを覚えているのだろうか。あれほどまでに大切にしていた人でさえも、忘却という不可逆的な暗闇の中に葬り去ってしまったとでも言うのだろうか。

 彼女の背丈は、僕と殆ど変わらなかった。髪は黒くて、長い。季節を問わず、肩甲骨のあたりまで伸びていた。いつ見ても、そのような形であるべきだと定められたように変わらない髪の長さは、彼女を象徴するひとつの要素だったのだと思う。

 では、顔は。表情は。どのようなものだったのだろうか。声よりは幾分かましに思い出すことが出来る。けれど、不鮮明であることには変わりがない。いや、そもそも本当に思い出すことが出来ているのだろうか。これは不鮮明な想起ではなく、ただの想像、妄想に過ぎないのではないだろうか。

 人は現実を記憶へと加工し、思い出へと退色させていく。彼女の存在もまた、確かに僕の隣に居た現実からやがて思い出へと変わっていく。僕にとって都合のいい記号へと成れ果てていく。そう自覚すると、身体の芯に寒気が走り、呼吸が浅くなったことが分かった。仕方のないことだ。仕方のないことだけれども、大切にしていたものを自らの手で損ねて、歪めてしまっているという事実は耐えられるようなものではない。

「大丈夫?」

 肩に置かれた手と、声が僕の意識を思考から現実へと引き揚げる。気管には未だ大きな石が詰まったような異物感が存在していたけれど、少しだけ、ましになった。

「大丈夫。大丈夫、だから。少し、時間をくれないか。思い出すのに、時間がかかりそうなんだ」

 彼女の声を、顔を忘れても事象としての記憶は残っているはずだ。それを手繰り寄せれば、手がかりは見出すことが出来るだろう。郷愁から訪れる痛みは僕の個人的な問題であり、芥生結の問題とは関係がない。

 芥生さんは、心配そうな表情をして僕を見つめていた。やめてくれ、と思う。同情をしないでくれ。あんたは、もう僕を利用すると決めたんだから。そんな感情を挟まず、散々に使い捨ててくれ。理解をされてもいないのに向けられる憐れみは、惨めになるだけだ。

 僕は何度か呼吸をして、自らが正常であることを確かめる。呼吸は未だ浅いが、出来ている。指先に残る冷たさは、身体を駆動させるうえであってはならないほどの重要な欠陥ではない。

 惨憺な思考を振り切るようにして、努めて僕は月行病についての話に戻す。個人的な懊悩を誤魔化すためには、体外的な問題に取り組むことが最も効果的なのだから。

「君が月行病に罹ってから、どれくらいの時間が経つんだ?」

 唐突に疑問を投げかけた僕に芥生さんは変わらず憂うような目を向けながらも、しかしそれ以上何かを問い質すことはなく答える。

「一月の下旬頃になり始めたから、多分五カ月くらい」

「五カ月」

 希望を持ち、落胆をするくらいならば常に想定するのは最悪であるべきだ。けれどだからといって、その想定通りの最悪は起きて喜べるようなことではない。昨夜、あそこまで制御をすることが不可能な飛翔をしていた時点で想定はしていたけれど、やはり事態はかなり進んでしまっているようだった。

 僕は考えた末に、知っている限りの真実を吐露する。今更慰めめいた韜晦は彼女を傷付けるだけになるということは分かっていたから。

「以前僕が出会った月行病の人間が月に行ったのは、発症をしてから大体半年後のことだった。もしも月行病という病の進行速度に個人差がないなら、時間はない」

 芥生さんは息を飲み、その表情から色彩を失わせる。自分の命が終わりに近付きつつあるということを、彼女は知っていたはずだ。それでも、改めて突き付けられるその事実は耐えられるようなものではない。

 僕の言葉はつまり、彼女の余命が現時点で一カ月ほどしかないのだということを通告していることに変わりがなかった。それでも、医者が患者にその現実を通告するよりも簡単に口にすることが出来たのはやはり、僕が彼女の死を、月へと飛び立つということを重く受け止めることが出来ていないからなのだろう。

 最低な人間だな、と自嘲する。僕はやはり、傍観者にしかなることが出来ない。出来ることは現実的な、行動を伴った手助けと薄っぺらい慰めに過ぎず、真に彼女に寄り添うことなど、出来やしないのだ。

「あと一カ月」

 芥生さんは絶望を呟く。自らの中に閉じ込めておけばそのまま崩れ去ってしまうからこそ、何とか吐き出すようにして。

 恐らく、より正確に日時を伝えることは出来る。鏡花が飛び立ってしまった日は、満月の夜だった。偶然ではなければ、次の満月の夜が芥生結のタイムリミットだろう。ただ、それが真実ではあったとしても今口にするべきではないことは僕でも理解をすることが出来た。人が前に進むためには、真実がなければならない。それと向き合わない限りには、一歩踏み出すことは出来ない。けれど、物事にはあるべきタイミングが存在している。物や感情に行き着くべき先が存在しているように、起こるべくタイミングで起こらなかった事象の果てには悲劇しか存在しない。だから、僕は沈黙を選んだ。今話すことは、僕にとっても彼女にとっても、不幸でしかないのだから。

 彼女は惚けるようにして、暫く惑いの中を揺蕩っていた。目的があるのならば、一刻も無駄にしないように期限は明確にしなければならない。けれど、本当に伝えるべきだったのだろうかと思う。これもまた、今は言うべきではないものだったのではないだろうか。

「……大丈夫か?」

 そんな情けない言葉しか吐き出せない自分の無力さが嫌になった。大丈夫なはずがない。死は、絶対的な自己の終焉は、等しくあらゆる人間にとって耐えがたいものであるはずなのだから。

「大、丈夫」と彼女は言った。自分は大丈夫なのだと、言い聞かせるように。言葉が、現実へと変貌することを願うように。

「分かってはいたつもりなんだけどさ、やっぱりいつって決定的に言われるときついものがあるね」

 自らを保つために浮かべた微笑は、世界中の哀しみを花束のように纏めあげたような、夜よりも深い藍色をしていた。その傷を癒すことは僕には出来ない。傷を付けたのは、僕なのだから、そんな都合のいい権利はない。ただ、彼女の選択を見つめるために、僕は言葉なく彼女の声を待つ。

 何かを言おうと、口を薄く開いたところで、彼女の身体が重力に逆らい宙の中を揺らいだ。ゆっくりと、しかし確かに月へと飛翔していくその姿は、何度見ても美しいと思ってしまう。内在する醜悪さから目を背けていることは分かっているのに。

 僕は手を伸ばす。けれど、重なり合ったはずの手が触れ合うことはなく、透過する。まるで、芥生結なんていう人間は世界に存在しないとでも言うように。

 やがて、そうなるのだ。目の前の彼女は、教室で笑っていた彼女は消えてしまう。喪失の予感に、生々しい痛みや感触は湧かない。ただ、どうしようもない虚がぽっかりと身体に空き、その中を冷たい夜風が通ったことが分かった。

「ねえ、白野君。私を、繋ぎ留めていてね」

 僕はその言葉に、何も返すことが出来なかった。時としては沈黙こそが、誠実さになる時もあるのだから。

 月は、いつもと変わらず白く輝き、無機質に空に浮かんでいた。しかし、あれこそが人を黒い空へと誘っているのだろう。伸ばした手は当然月へと届くことなく、虚しく空を切った。

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