2
その夜、眠ることが出来たかどうかは分からなかった。不連続的に明確化された意識は夢を見ていたのか、それとも眠ることが出来ていなかっただけなのか。いずれにしても、最低な夜のやり過ごし方であったことには変わりがない。抜けきらないまま身体の底に沈澱した倦怠を引き摺って起き上がり、準備をして学校へと向かう。
朝を迎え、生活をなぞり、学校へと通う。それは僕にとってマニュアル化された作業のようなもので、意思が介在する空間は存在しない。
心を鈍化させて現実を捉えることは、外傷を抑えることが出来る代わりに内側から腐るように何かがすり減っていく。外側から崩れていくことと、内側から腐っていくこと。どちらの方がましなのだろうか。分からないけれど、精神の腐敗に痛みが伴わないことは確かで、僕は臆病さがゆえに世界を拒絶する。
不意に月に惹かれた彼女の姿が、頭の中を掠めた。完成されたような、月光に照らされた美しい姿が鮮明に脳内に再上映される。
過度な美しさは、時としてグロテスクに映ることがある。人が月へと飛び立とうとする姿は、まさしくそういう種類のものだった。人間味が失われていて、けれど確かに人間であるという恐ろしさ。
昨夜見た少女は、月に行くことが出来たのだろうか、と思う。あのまま、惹かれるがままに月へと着陸したのか、それとも正常な法則を取り戻し、日常へと帰還をすることが出来たのか。僕はどちらを望んでいるのだろうか。少女が月へ行くことと、僕と同じ世界にまだ生き続けていること。
少し考えて、やめた。自分と関わりのないことを憂いたとしても、仕方がない。昨日、少女は確かに存在した。世界から解放され、月へと飛び立とうとしている少女は夢でも幻覚でもなく、確かにあの場所にいたのだ。
しかし、そのうえで僕は昨夜見た出来事を自分と切り離す。地続きに存在していた事象を境界線で区切り、自分とは別の話なのだと割り切る。生きていく中で、荷物は少ない方がいいのだから。けれど、結果から言ってしまえば僕のこの決意は虚しい抵抗に過ぎなかった。人間の意思に関係なく世界は進み続けていて、祈りは現実を何も変えてはくれないのだから。
電車に乗り、高校の最寄り駅で降りる。人混みを揺蕩うようにぼんやりと歩きながら、学校へと向かって行く。同じ歩くという行為であるはずなのに、夜の徘徊と朝の登校は全く違う質を持っているのだと、いつも思う。周りを囲う世界の様相が異なるという単純な理由だけではなく、歩いている僕自身もまた、全ての細胞が入れ替わったように感じるのだ。どちらが正しい歩き方なのだろうか。それともどちらも間違っているのだろうか。
雨はもう暫く降っていないけれど、高い湿度はじっとりと肌に貼り付く。もう梅雨は終わり、夏へと移行しているのだろうか。雨も酷暑も嫌いだけれども、どちらかと言えば雨の方がましで、もう少し梅雨が続いてくれないだろうかと願う。しかし、暑さの気配は誤魔化すことは出来ない。そろそろ夏服を引っ張り出すべきなのだろう。追い越した何人かの生徒は既に、半袖を着てか、あるいは長袖を捲って腕を露わにしていた。
下駄箱を抜けて教室へと行き、席に着く。殆ど何も入っていない、形だけの鞄を机の横にかけて座る。鞄の中に入れていた文庫本を取り出して、開く。
いつからか、楽しみにしていた読書でさえも惰性的なものになり始めた。鮮やかな感動を与えてくれた文章と物語は色彩のないただの記号へと成り果て、無機質に僕の中を通り過ぎていく。それでも本を読み続けるのは、空想というシェルターに籠もっていなければ、耐えることが出来ないという、僕の情けなさがゆえだった。物語は、現実逃避のためのチープな特効薬だ。持続性の短さと依存性を考えれば、違法薬物とでも言った方が正しいのかもしれないけれど。
退屈をすることはないけれど面白いかどうかすらも分からない、無味無臭な小説を読み進めていると予鈴が鳴った。クラスメイトたちは緩慢な動きで席へと着いていく。今日もつまらないほどに耐久性のある日常が繰り返されていく。はずだった。
視界の端に、何か強烈な違和感を覚えた。見過ごすことの出来ない異物を、変わらないはずの日常の中に見出した。
教室を見回して、すぐに気が付く。少女が居た。昨夜、月へと飛び立とうとしていた少女が。
朝の弛緩した教室の中で浮かべられる表情に、昨夜のような人離れした異質さはない。けれど紛れもなく、彼女はあの少女だった。
どうして昨日気付くことが出来なかったのだろうか。月明かりがあるとはいえ、充満していた暗闇のせいか。それとも単に他者への関心が存在しないのだという僕の特性がゆえか。いずれにしても、彼女が目の前に居るのだという現実は何も変わらない。
彼女の方は、僕に気が付いているのだろうか。今のところ、話しかけてくるような様子は見えない。暗がりで、こちらの顔を見ることが出来なかったのか、それとも認識をしたうえで話しかけていないのか。
『見ないで!』
昨夜聞いた、叫びが頭の中を反響する。傍から見れば、月光に照らされながら空へと飛翔していく姿は美しさすら感じる。けれど、そうした俯瞰的な印象とは別に、彼女の声には切実な拒絶が示されていた。理由は分からない。ただ分かることは、彼女があの姿を見られることにひどい怯えを抱いているということだけだ。
人間は普通、身一つで飛翔することなど出来ない。それに、昨夜僕たちが出会った時間帯は深夜だ。ともすれば彼女は、僕が夢か何かの見間違いをしたのだと思い込む可能性に賭けているのかもしれない。実際、昨夜の話を誰かにしようものなら、狂っていると思われるべきだろう。
けれど、僕には確信がある。あれは見間違いなどではない。彼女は紛れもなく、飛翔していた。そして、その事実は僕が届くはずのないと思っていた希望に近付いていることを指し示している。
何かを得るということは、何かを犠牲にすることだ。僕のエゴイズムは彼女を傷付けることになる。それは、誰かに見られることを拒絶していた彼女の叫びが証明している。
それでも、もう後悔だけはしたくないから。この望みさえ何もしないままに捨ててしまえば僕は一生過去という牢獄に囚われ続けるしかないのだろうから。
懊悩を耐え忍ぶには長く、人生の中では極めて短い時間をかけて放課後になり、友人と談笑しながら教室を出ようとする彼女を、僕は追いかける。
「芥生さん。ちょっといいかな」
振り返った芥生結の瞳は、僕の顔を見て静かに揺らいだ。あまりにも小さく、他人の目を見ることが苦手な普段の僕であれば見逃していたであろうその揺らぎは、けれど決定的なものであり、彼女こそが昨夜の人物なのだということに改めて確信を抱く。
「白野君? どうしたの?」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、時間ってある?」
「……うん、あるけど」
そう言って彼女は友人の方へと振り返り、気丈に笑顔を作る。
「ごめん、ちょっと先行ってて貰っていい?」
「いいけど、何? どういう関係?」
「予備校が一緒なの。私も丁度課題のこととかで聞きたいことがあったから、長くなるかも。何なら先に帰っててね」
言うまでもないけれど、僕は予備校になど通っていない。用意もなく澱みなく嘘を吐くことが出来る技術に、素直に感心する。
「ん。まあ、あんまりにも長かったら先に帰ってる」
「はーい」
友人の影を見送り、恐らくは見えなくなったことを確認すると芥生さんの表情には目に見える緊張が走る。あるいは、表情の変化が顕著なのではなく、僕が彼女の変化に敏感になっているのかもしれない。
「それで、話って何かな」
「昨日のことだけど、ここで話してもいい話かな」
「……そうだね。ちょっと移動しよっか」
彼女は歩き始める。僕はただそれについて行く。誰かに見咎められるような、おかしなところはどこにもない。それでも、彼女は悪事が露見しないよう恐れる盗人のように、周囲の様子を確認しながら歩き続けた。
ひと気のない方へと進み続け、僕たちは屋上へと続く階段の踊り場に落ち着く。自殺防止のために施錠をされた屋上へと向かう者はまず居らず、よほどの偶然がない限りは暫くの間、ここは僕たちだけの貸し切りに出来るだろう。密談にはこれ以上ない場所だ。
彼女は階段を数段上がり、手すりに凭れかかる。僕は数段下にある階段に立ち、反対側の手すりに凭れかかる。窓から差す斜陽によって音もなく舞う埃が目に入って、埃っぽい匂いに気が付く。
「それで、昨日のことって何かな」
こんなひと気のないところにまで来て、話をするのだ。彼女だって内容については見当がついているだろう。それでも無意味な抵抗を続けるのは、それほどまでに彼女にとって話したくないことなのだろう。あの美しい現象については。
まだ、有耶無耶にすることは出来た。彼女が友人に吐いたように、僕も適当な韜晦を吐いて、昨日のことをなかったことにしてしまうことは、出来た。けれど、それは既に捨て去った選択肢であり、僕は一歩彼女の触れられたくない部分へと踏み込む。
「昨日の夜。君が浮かんでいたことについて、話がしたいんだ」
「……白野君だったんだね」
諦念と悲哀の入り混じった声が踊り場に反響する。そうして現れた沈黙を破る権利が僕にはないような気がして、次の彼女の言葉を待つ。姿勢を直すために手すりを掴み直すと、鉄製の冷たさが肌に伝った。
「君が見たのは紛れもなく私だよ。昨日のあれは、その――」
「月行病だろ」
躊躇いの先を、代わりに口にする。彼女は動揺を携えながら、改めて僕の目を見る。
「どうして、知ってるの」
「偶然だよ。機密情報ってわけでもないんだ、縁があれば誰でも知ることくらいは出来る」
夜が訪れる度に徐々に重力を失い、空へと消えていく病。科学的な説明がつけられていない以上、病というよりは現象と呼ぶべきなのかもしれないけれど、現状においてはそう呼ばれている。公的な記録が殆ど残っていないせいでオカルトとして語られることも多いが、公的でないものも数えればその記録は古くから確かに存在し続けているものだ。
月を求めるように浮かんでいく姿から月行病と名付けられたその病気についての痕跡は、半分は真実として、半分は諧謔めいた言葉として、様々な場所で目にすることが出来る。実在を信じている人こそ限られているだろうけれど、知っていることはそれほど珍しくもない。
「なら、君は何を聞きたいの? 私も、今自分がどうなっているのかよく分からないから話せることなんてもう殆どないよ」
「頼みがあるんだ。君にしか頼めない、頼みが」
「……分かった。私に出来ることなら引き受けるよ」
芥生さんは僕の頼みの内容を聞くこともなく、急くように肯ずる。何故そのようなことをしたのかという答えは、すぐに継がれた言葉によってつまびらかになる。
「ただ、代わりに約束して。あのことを、誰にも話さないって」
「……約束するよ」
元より、話すつもりなどなかった。けれど、よりその決意を強くした。
いつか、母から聞いた言葉を思い出す。人には、誰にだって秘密がある。誰かに発かれてしまえば、綻びが出来てしまえばその人自身を崩れさせてしまうような秘密が。彼女にとっての秘密は、自らが空に浮かぶことなのだろう。そして、僕は偶然にもそれを発いてしまった。彼女の今の強迫的な態度は、そうして現れた彼女の綻びなのだろうと思う。
僕は、僕の意志でそれを明確にしてしまった。素知らぬふりをすることをやめて、僕の望みのために彼女の秘密を言葉にしてしまった。だから、約束する。
「ありがとう」と言った彼女の態度は、けれど弛緩することはない。分かってはいたことだけれども、ただの言葉には価値がない。口にしただけではまだ、それはただの記号の羅列にしかならない。
言葉は行動に移すことで世界と接点を持つ。意味が付与される。僕は、僕の態度を以て彼女の信頼を得なければならない。せめてそれくらいが、僕に出来る誠実さなのだろうから。
「それで、私にしか出来ないことって何かな。勿論、出来ることならするつもりではあるけど」
「その前に、ひとつ聞いてもいいかな。勿論、これは頼みじゃないから言いたくないなら答えなくてもいいんだけど」
「どうぞ」
「君は、月に行きたいと思っているのか?」
彼女は僕の言葉に表情を歪める。自らの言葉が残酷であることは理解していた。それでも、この質問を避けるわけにはいかない。僕の望みのためには彼女の協力が必要不可欠であり、そのために意志を明らかにしておきたかったから。
「……行きたいわけ、ないじゃん。月に行くっていうけどさ、それってつまり死ぬってことでしょ。誰だって死にたくなんてないよ」
死という言葉は簡単に使われる。けれど、本当の死を知っている人間は少ない。ましてや、十代の少女であれば尚更に。
彼女はその数少ない少女の一人だった。月行病の人間は自らの身体が空へと近付いて行く度に、嫌でも死を知らされる。毎夜世界に、残された時間を宣告され続けている。そんな彼女の語る「死」は、これ以上踏み込むことを躊躇いそうになるほど鈍重な質量を持っていた。
誰だって死にたくなんてない。その切実な祈りにも似た言葉は、幸いにも僕が語ろうとする望みと合致していた。
「オーケー。なら、やっぱり頼ませて欲しい。僕に、君が地上に留まる手伝いをさせてくれないか」
僕のその頼みに、彼女は瞳を大きく開いて、その後に訝しむような表情を向けてくる。
「……本当の目的があるなら、迂遠なことを言わずにはっきり言って欲しいんだけど」
「これが本当の僕の目的だよ。僕も、君に月になんて行って欲しくない。だから、その手伝いがしたい」
「例えば、君と私が友達であれば納得出来たけど、話したこともなかったよね。私を助けて、君に何があるの?」
答えるために口を開きかけて、胸の奥にある疼痛をなぞった。どれほど時間が経っても、過去の痛みは癒えそうにない。だからこそ僕はこうしてその痛みを救うために行動している。
あの過去に纏わる話は、出来ることならば他人に話したくなかった。誰にも話さないと約束をしたわけではないけれど、あの時間は僕たちだけのものだったと、今でも確かに信じているのだから。
けれど、偶然から始まったこととはいえ彼女は彼女の秘密を明かしてくれた。ならば、僕も躊躇うべきではない。話さなければならない。
一度、息を吸う。踊り場の埃っぽい空気が肺に入っていく。いつかの夜の温度が、幻肢痛のように肌の上に甦って。そうして僕は初めて、あの時のことを言語にする。
「以前も会ったことがあるんだ。月行病の人間に。その時は、何も出来なかった。ただ、見送ることしか出来なかった。だから、もう嫌なんだよ。何も出来ないままで、何もしないままで居るのは」
もう何度も繰り返し続けた光景が、また頭の中で再上映される。遠く、遠く、月へと浮かんでいく彼女の姿を、僕は見る。けれど、それはただの妄想に過ぎなかった。彼女は僕に何も告げずに、あまりにも静かに消えてしまったのだから。僕は僕が恋していた人の遺言を聞いていないし、どのような表情をして空へと去ってしまったのかも、知らないままだ。
忘れてしまいたいと願った。もう届かない人に何を想っても、それは傷を掻きむしり続けるようなもので、痛みを覚える以外に何も得られない。けれど、彼女の存在は僕という人間の核に染み込んでしまっていた。不可分的に、這入りこんでしまっていた。
だから、僕は僕を救うために行動しなければならないのだ。忘れることが出来ないのならば、例えそれがどれほど遠いところだとしても、手を伸ばさなければならないのだ。
僕の願いを、芥生さんはたっぷりとした沈黙の中で噛み締める。何を思っているのかは分からない。僕に出来ることは、待つことだけだった。彼女が受け入れてくれることを願いながら、待つことだけだった。
「分かった」という短い肯定の言葉が、沈黙を弾丸のように貫いて壊す。
「私一人じゃ、何も出来なかったから君が助けてくれるなら私も嬉しいよ。でも、解決策なんて、本当にあるの?」
「……正直に言うと、まだない。ただ、もしかしたらどうにか出来るかもしれないというような可能性なら、ある」
あくまでも、それは可能性だった。猿がハムレットを書き上げるような、存在を否定することこそ出来ないけれど在るものとして仮定するのは愚かしい話だということは理解している。
だからと諦めることが出来るならば、僕はきっと昨夜の出来事から目を逸らして生活を続けていただろう。
「君を助けることが出来る、と約束することは出来ない。いたずらに、君に残された時間を無駄にしてしまうかもしれない。でも、頼むよ。僕に、手伝わせてくれ」
随分と久しぶりに、他人の目を真っすぐに見つめた気がした。芥生さんは、僕のエゴイズムに透き通るような目で向き合ってくれている。その誠実さが、痛かった。
「言ったでしょ、君の頼みを引き受けるって。改めて頼むようなことじゃないよ」
それに、と彼女は笑う。
「私からすれば、誰かに協力して貰えるのは本当に嬉しいんだ。もうどうしようもないと思っていたから。誰にも、こんなこと話せないと思っていたから。だから、ありがとう。よろしくお願いします」
彼女は慇懃に、頭を下げる。やめて欲しかった。僕がしようとしていることは、感謝をされるようなことではない。彼女のためではなく、どこまでも自分のためのことに過ぎない。
それでも、他人の強固な意志を曲げることが出来ないのは僕の弱さであり、ただ深々とした礼を泥濘を噛み締めるような気分で眺めていることしか、出来なかった。
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