第9話 わっか
メイド服からいつもの装いにもどったお菊、アヤメ、ジーナの三人が、皿屋敷のアヤメの部屋で意気消沈していた。アヤメの口から吐きだされる煙管の紫煙が、三人の心にかかった暗雲のごとく天井付近をたゆたっている。
アヤメが口からはなした煙管を、煙草盆の縁にやつあたりっぽくたたいてカンッと打ち鳴らした。
「あいつ、あたいらになにか恨みでもあんのかねッ」
アヤメの口から煙とともに吐きだされたのは日鷺院那乃への恨み節だった。
最初は皿屋敷の存在価値を示せと言ってきて、ならばとこちらが客寄せのために宣伝費を稼ごうとしたら、それはダメだと言ってくる。皿屋敷の面々からしたら、経営的な判断の範疇をこえた、単なるいやがらせにしか思えなかった。
「けど、あいつの言うことにも一理あるのよね。皿屋敷がつまらないままでは宣伝しても意味がないって言われた時、悔しいけど、なにも言いかえせなかった・・・」
ジーナが、そこに日鷺院那乃の姿でも思い描いているのか、憎々しげに一点を見つめながら声をしぼりだす。
「結局、この皿屋敷のことを人間たちにこわい、楽しい、またいきたいって思わせないと意味がないのよ・・・」
「それができりゃあ、今ごろこんな苦労はしてないよ」
「そうよね・・・」
ジーナが畳の上にごろんと仰むけに寝そべり、両手を頭の後ろに重ねて天井を見つめた。
「きっとあの女もそれをわかってるのよ。あたしたちにはどうすることもできないって」
「だったら、どうしてあたいらに一ヶ月の猶予をあたえたんだい?」
「さあね。あたしたちがあたふたする様を見て楽しみたかったんじゃないの?」
「ったく、悪趣味な女だねえ!」
アヤメが煙のかわりに憎悪を吐きだし、イライラとした手つきで煙管に煙草をつめなおしはじめた。
アヤメとジーナが互いに愚痴をこぼしおえたのを見はからって、お菊はおずおずと切りだした。
「どうなっちゃうんですか、わたしたち・・・」
「四面楚歌、八方ふさがり、万事休すよ」
ジーナが天井を見つめたまま他人事のように言葉をつづける。
「この皿屋敷にこだわるのはあきらめて、人間社会で生きていく方策を考えたほうが建設的かもね」
「そんな!」
お菊は立ちあがり、着物の衽をギュッとにぎりしめながら訴えた。
「わたしたちはそれでいいかもしれません・・・でも! 助ちゃんや新さんはどうなるんですか!」
人と見わけがつかないお菊たちは、どうにかして人間社会にとけこめるだろう。だが、人のナリをしていない唐傘小僧や提灯お化けにそれは無理というものだった。
「目も口も閉じて、これから先、ずっと物のふりをしてろって言うんですか! わたしたちがわたしたちでいられる場所は、この皿屋敷しかないんです!」
「そんなことわかってる・・・けど、もうどうすることもできないのよ。あの女を殺すこと以外にはね」
言った本人がこの発言のむなしさをよく理解しているせいか、ジーナは不機嫌そうに眉根を寄せて目を閉じてしまった。
人に危害を加える。それだけは絶対にしてはならなかった。無明との約束を破ってでも皿屋敷にいたいと思うような者はこの場に皆無で、それだけにお手あげ状態の感が否めず、アヤメの部屋はふたたび重苦しい沈黙につつまれた。
そんな暗い空気のなかに、突如、無邪気な子供の声が流れこんできた。
「から~ん、ころ~ん、から~ん、ころ~ん」
あっけらかんとした声で下駄の音を再現し、スニーカーを履いた一本足で飛び跳ねながら唐傘小僧がやってきた。そして、大きなひとつ目でお菊たちを見まわして、不思議そうにパチクリと瞬きをくりかえす。
「あれ~? どうしたの、みんな~。暗い顔しちゃってさ~」
「助ちゃん・・・」
なにも知らない助六の明るさがうらやましくもあり、不憫でもあり、お菊は思わず瞳を潤ませた。
唐傘小僧や提灯お化けのような物怪は、目と口を閉じ、一言も発しなければ物と見わけがつかなくなる。その状態なら人間たちにお化けだと悟られる心配はなかった。
だが、それでは自分を殺しているのとかわらない。死ぬよりもつらいそんな状況に助六や新三郎をおいこまなくてはならないのかと思うと胸がしめつけられ、その痛みがお菊の目に涙をためさせるのだった。
目もとを光らせたお菊に気づいたのか、助六がこわごわとたずねてくる。
「お菊ちゃん・・・泣いてるの?」
「ううん・・・ちょっとゴミがはいったみたい」
彼を心配させまいと、こぼれそうだった涙を指で払いつつ下手な言いわけをするお菊に、助六が優しくも遠慮したい提案をしてきた。
「おめめ、舐めてあげようか?」
「・・・だ、大丈夫。ありがと」
「そっか。ところでさ、ぼく、またあの子にきてほしいんだよね~」
脈絡のない話題転換に戸惑いつつも、お菊は話につきあった。
「あの子って?」
「ほら、お菊ちゃんが悲鳴をあげさせた男の子。ぼく、あの子に気づかれなかったんだけど、今度こそ気づかれる自信があるんだ~。なぜかというと、スニーカーを履いててもさ、自分の口で『からん、ころん』って言えばいいってことに気づいたんだよ~。これはセイキの大発見ってやつだね・・・お菊ちゃん? 聞いてる?」
助六の他愛もない話を聞いている最中、お菊は、自分の暗い心のなかに一筋の光明が差したような感覚を味わった。それはワクワクとした疼きに似ていて、この疼きの正体はなんだろうかと、お菊は助六の心配そうな顔にも気づかず思索にふけった。
やがて、ワクワクの原因に思いあたったお菊は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
「・・・お客さんを、こわがらせることができれば、いいんですよね?」
「あん?」
お菊の独り言が小さすぎたせいか、よく聞きとれなかった様子のアヤメが怪訝な眼差しをよこしてくる。
お菊は、自分のなかでわきあがってくる心地よい衝動に興奮しながら声を弾ませた。
「お客さんに悲鳴をあげさせればいいんですよね? それなら、わたし、やったことあります! この前、ここにきた男の子、わたしのことを見て、悲鳴をあげて逃げたんです! あの男の子、アヤメさんもおぼえてるでしょ?」
「ああ・・・そう言や、そんなことあったねえ」
めったに客が入らない皿屋敷だけに、例の男の子のことはアヤメもおぼえていたようだ。
お菊は、涙ではなく希望に目を輝かせてつづけた。
「あの子が悲鳴をあげた原因はよくわかりません・・・でも! それさえわかれば、わたし、どんな人でもこわがらせることができるようになると思うんです! あの男の子のこわがりようは尋常じゃありませんでしたから!」
興奮ぎみのお菊に感化されたのか、アヤメが膝元の煙草盆をわきに押しやり、興味津々の顔つきで身を乗りだしてくる。
「その原因とやらをさぐろうじゃないか。どういう状況だったんだい? くわしく聞かせとくれよ」
「はい!」
お菊は当時の光景を思いだしながら口をひらいた。
「最初は、普通にお皿を数えてたんです。でも、四枚目を『よん』と数えるのか『し』と数えるのかで迷ってしまって・・・」
「七もだよね~。『なな』なのか『しち』なのか、どっちなんだろ~」
「あ、ほんとだね、うふふ」
お菊が助六と見つめあって不思議な発見をよろこんでいると、アヤメが煙管の吸い口でポリポリと日本髪をかきながらあきれぎみに目を閉じ、話の先をうながした。
「いいからつづきを」
「あ、はい・・・それで、男の子がわたしの好きなほうで数えればいいって言ってくれたので、頭をさげてお礼を言ったんです。そしたら、その子が『きっとくるこだ』って言って逃げていっちゃったんです」
「きっとくるこ? なんだいそりゃ・・・さっぱり要領を得ない話だね」
期待して損したと言わんばかりにアヤメの肩がおちる。
すると、仰むけに寝そべっていたジーナがそのままの体勢でぽつりとこぼした。
「『わっか』だわ」
このジーナのつぶやきこそ要領を得られず、お菊は目を丸めて小首をかしげた。
ジーナがムクッと上体をおこし、次いで立ちあがり、お菊のほうへ歩み寄ってきた。そして、お菊の目の前までくると、おもむろにお菊の長い頭髪を両手でいじりだす。
「な、なにするんですか、ジーナさん! や、やめてくださいッ」
抗議の声もむなしく、ジーナは抵抗するお菊の手を器用にかわしながらお菊の髪のすべてを後ろから前にもってきて、その髪でお菊の顔をおおいかくしてしまった。
「なんてことするんですかッ、もお!」
顔面をおおっている髪をあたふたとよりわけ、ようやく左目だけをだしたお菊は、その目でシーナをムッと睨みつけた。
ところが、ジーナは悪びれるどころか恍惚とした表情を浮かべ、うっとりとお菊を見つめてくるのだった。
「今まで、どうしてこれに気づかなかったんだろ・・・」
「なんだい、いきなり。どうしちまったんだい、ジーナ」
突然、奇行にはしりだしたジーナを心配してか、アヤメが混乱ぎみに眉根を寄せた。
ジーナが、黒髪の間から片目だけをだして仏頂面のお菊を見つめたまま答える。
「『わっか』よ。『わっか』」
「わっか?」
「知らないの? 有名なホラー映画のタイトルなんだけど」
お菊とアヤメは顔を見かわしたあと、同時に答えた。
「知らないねえ」
「知りません」
ジーナがあきれぎみに肩をすくめる。
「ジャパンホラーの金字塔よ? 日本はおろか、世界をも震撼させた最恐のホラー映画なんだから」
「その映画と、お菊のそのみっともない姿と、どういう関係があるんだい?」
「にてるのよ。この状態のお菊が、『わっか』にでてくるお化け、キットクル子に」
自分のことのように嬉々と語っていたジーナが過去をふりかえるような表情になる。
「思えば、グッズショップの時も、頭をさげて顔が髪でかくれたお菊のことを、お客が気味悪そうに見てたっけ・・・」
これを聞いて、お菊は確認するようにたずねた。
「悲鳴をあげて逃げだした男の子も、わたしのことを、その映画のお化けだと思って?」
「それ以外に考えられないわ。井戸、長い黒髪、その黒髪を前に垂らして片目だけで見つめてくる女・・・すべてが『わっか』と符合するもの」
ジーナがひとりで納得してうなずき、右手にグッと拳をつくると静かに闘志を燃やしはじめた。
「これはいけるかもしれない。中身を改善しろ? いいわ。やってやろうじゃないの」
そしてお菊をふりかえり、固い決意をにじませた鋭い視線を放ってくる。
「お菊」
「は、はいッ」
ジーナの気迫におされて、お菊は思わずピンと背筋を伸ばした。
そんなお菊のことを、ジーナが配役を告げる舞台監督のように力強く指さしてくる。
「今日からあなたはお菊じゃない。キットクル子よ!」
「へ?」
「そのためにも、今から『わっか』を視聴して、キットクル子の表情から一挙手一投足にたいるまですべてを研究し、我がものとするのよ」
「み、見るんですか? その、とってもこわそうな映画を・・・」
「皿屋敷を守るためよ」
「うう・・・」
「決まりね。さっそくあたしの部屋にいくわよ。『わっか』をネットでレンタルしてあげるから」
「うう、としか言ってないのに決まったことにしないでください・・・」
「あきらめなさい。あなたはこれより二十四時間、あたしの部屋に缶詰状態で何度も何度もくりかえし『わっか』を視聴するのよ」
「ええええええェェェ・・・」
悲鳴をあげるお菊の手を有無も言わせぬ勢いでジーナがつかみ、自分の部屋へ連れていこうとする。
ジーナに引きずられていたお菊は、戸口の柱にしがみついて必死に抵抗した。
「アヤメさん! たすけて! 誘拐されちゃう! わたし見たくないです! 缶詰もきらいです!」
「缶詰の意味がちがうよ・・・そもそも、たかが人間のつくり話に、本物のお化けがこわがってどうすんだい?」
そんなことを言われても、いやなものはいやだったので、お菊は柱にしがみつきながらわめきつづけた。
「やです! こわいです! 見たくありません! アヤメさん! たすけてください!」
「ったく、しょうのない子だねえ」
アヤメがゆらりと立ちあがる。
「ありがとうございます、アヤメさん!」
たすけてくれるものと信じたお菊の顔に安堵の笑みがひろがる。
が、アヤメは柱にしがみついているお菊の指を一本一本、ほどくのだった。
「あたいも、一回目だけは一緒に見てやるよ」
「ええええええェェェ・・・」
両足をジーナにかかえられ、両手をアヤメにつかまれながら、お菊は二十四時間缶詰部屋、もとい、ジーナの部屋へとさらわれていった。
「『わっか』のダウンロード完了。さ、いくわよ、お菊。立派なキットクル子になるのよ」
お菊の視界のなかで、ジーナが、お菊によく見えるようにモニターの角度を調節しながらそう告げてきた。
そこにアヤメの顔がはいりこんできて、神妙な表情と口ぶりで言うのである。
「たのんだよ、お菊、あたいらの命運は、あんたにかかってるんだからね」
「お菊がいてくれたことに感謝しないとね、あたしたち」
ありがたがっているような発言をするアヤメとジーナに、お菊は自分の身におきているうけいれがたい状態を抗議した。
「感謝してるなら、どうしてわたしを雁字搦めにするんですか!」
座らされた椅子とともに、お菊は手も足もロープでグルグルに縛りあげられ、頭も上下左右にふれないよう背もたれに固定されていた。
お菊は、それらの拘束からぬけだそうと必死に体をゆさぶりながら懇願した。
「これ、ほどいてください!」
「そりゃ無理ってもんさ。ねえ、ジーナ」
「うん、無理」
アヤメにジーナが同調してうなずく。
ムッとした仏頂面でお菊はジーナを睨んだ。
「どうしてですか」
「だって逃げるでしょ?」
「あたりまえです!」
「だから無理なの」
お菊とジーナの問答をきいていたアヤメが感じいったように何度もうなずく。
「理屈はあってるねえ」
「あってません!」
勝手な理屈でお菊に対する暴挙を正当化するふたりに、もはや正論では太刀打ちできないと悟ったお菊はごねることにした。
「こんなことされても、わたし、絶対に見ませんから!」
そう言ってお菊は両目を閉じ、目もとにグッと力をこめて、この部屋にいるかぎり二度と目はひらかないことをふたりにアピールした。これなら恐ろしい映像を見なくてすむ。音声が流れてくるのは防ぎようがないが、映像がないだけでも恐怖はだいぶやわらぐだろう。そう思うと、お菊にもようやく少しばかりの余裕がうまれた。
「あまいねえ、お菊」
目を閉じた暗闇のなかで、お菊の耳にアヤメの声が不気味な響きをともなって流れこんできた。
ビビビビ、ビッ──。
ビビビビ、ビッ──。
この音はもしや、と、お菊の胸にいやな予感がよぎった直後、両目のまぶたが強引にもちあげられ、悪魔のような笑みを浮かべたアヤメの顔が間近に飛びこんできた。
「こうして、こっちもこうしてっと・・・ふ、ふ、ふ。これで目は閉じられまい?」
おでことまつ毛を、なにかがつないでいる感触にお菊は気がついた。そのせいで、どんなに力をこめても両目のまぶたがおりてこない。
アヤメが満足げな笑みで見つめてくる。
「こういう時のセロハンテープは最強だねえ」
「まさしく文明の利器ね」
目を閉じている間にお菊の視界から消えていたジーナの声が、死角から楽しそうに聞こえてきた。
唯一のささやかな抵抗すらも通用しなくなった現実に、お菊は声と体を震わせた。
「ひ、ひどすぎます・・・」
そんなお菊をいたわるように、アヤメが優しく声をかけてくる。
「安心おし。あたいだって鬼じゃないんだ。たまには目薬を差してやるから、目が乾燥しちまう心配はいらないよ」
「そういう問題じゃありません!」
「じゃ、再生するわよ」
お菊の悲鳴まじりの抗議を完全に無視して、リモコンをもつジーナの手だけがお菊の視界のすみに現れた。
「ループ設定にしてあるから、映画がおわっても自動でまた頭から再生されるわ。だからお菊は動けなくても平気よ」
「平気じゃないです!」
「おや、ジーナは一緒に見ないのかい?」
頭を動かせないお菊の死角で衣擦れの音が聞こえる。どうやらジーナが着がえをはじめたようだ。
「うん。ちょっとでかけてくる」
「どこへだい?」
「キットクル子の衣装とか小道具が必要でしょ? 街にでて買ってくる」
「こんな夜中にやってる店なんか、あんのかい?」
「なんでも売ってる二十四時間営業のディスカウントストアがあるの。たしかペンギンだかドジョウだかの絵が看板に描かれてた気がする」
「そうかい。ま、ともかく、人間たちには気をつけるんだよ」
「あたしがヘマするわけないでしょ。というわけで、お菊は心ゆくまで『わっか』を楽しんでてね」
「ジーナさん、考えなおしてください・・・でないと、わたし──」
お菊は、こわそうにきこえるように、できるだけ低い声で警告した。
「あそこの棚にならべられてるゲームソフト、数えちゃいますよ!」
「おっと、あぶないあぶない」
下着姿のジーナがあわてた様子でお菊の視界に飛びこんできた。そして、脱いだばかりのスウェットの上着でゲームソフト用の棚をおおいかくす。
「わざわざ警告してくれるなんて、お菊は優しいね、ふふ。ありがと」
感謝のしるしのつもりだろうか、ジーナがお菊の頬にキスをして、また視界から消えていった。
隣のアヤメが不安そうな声をもらす。
「お菊に、モニターそのものを消されたりはしないだろうね? 映画を途中で見れなくされるのはやだよ?」
「それは大丈夫。できたらとっくに数えて消してるもん、ね、お菊?」
「・・・・・・」
ジーナの言うとおりだった。
目の前のモニターを数えて消そうにも、お菊の視界にモニターはひとつしかないのである。複数のパソコンをもっているジーナの部屋には他にもモニターがあるはずだが、お菊の力を警戒した彼女は、お菊の視界に一台しかはいらないよう、モニターと椅子を巧妙に配置したようだ。
ひとつしかないものはお菊の力をもってしても消せない。お菊の特殊な力はあくまでも「ひとつだけ足りなくする」ものであって、ゼロにはできないのである。
やがて、お菊の背後で部屋の扉のあく音がした。着がえおえたジーナがでていこうとしているようだ。
「じゃ、いってくる。雰囲気をだすために部屋の明かり消しとくね」
発言と同時に部屋がフッと暗くなり、扉がしまる音と、遠ざかっていくジーナの足音があとにつづいた。暗い部屋に残されたお菊とアヤメの顔を照らすのは、青白い光を放つモニターだけとなる。
「映画なんて、無明さまと一緒に見た『羅生門』以来だから楽しみだねえ」
五十年以上も昔の映画のタイトルを懐かしそうに口にするアヤメの隣で、お菊は身も心も震わせていた。
「無明さまァ・・・」
ウキウキとした声のアヤメとは対照的に、この場にいない人物に助けを求めるお菊の声はか細かった。
セロハンテープによってひらきっぱなしにされたお菊の目が、早くも潤みはじめているのは乾燥のせいではない。これからどれだけ恐ろしい映像とストーリーを見せつけられるのか、それへの恐怖と、その恐怖から逃れる術をすべて絶たれているという絶望的な状況が原因だった。
モニターに、薄暗い森のなかにぽつんと置かれた井戸が映る。
相反する心もちのふたりの目の前で、世界最恐ホラー映画『わっか』がはじまった・・・。
二時間ほどの外出で買い物をすませてきたジーナは、大きな買い物袋を肩にかつぎながら自分の部屋の扉をあけてすぐ、ギョッとした。
「ちょっと、アヤメ、なにしてんの・・・」
伸びきったアヤメの首がめちゃくちゃにもつれて結ばれ、頭は床に落ちていた。
「あ、ジーナさんですか? お帰りなさい」
椅子に縛られて身動きがとれず、頭も動かせないお菊が朗らかな声でむかえてくれた。
「あれ・・・意外にも元気ね」
二回目の「わっか」の上映がはじまっているらしいモニターをいそいそと切り、お菊の正面にまわりこむと、目を閉じられないようにしていたセロハンテープは粘着力の限界に達したのか外れており、おまけにお菊は笑顔であった。
「お菊、こわくなかったの? ちゃんと最後まで見た?」
「はい、見ました。最初はこわかったです・・・でも、同じ井戸好きとして、わたし、キットクル子さんに同情してしまって・・・」
「井戸好きって・・・へんなコミュニティ、つくらないでよ」
「かわいそうなキットクル子さんですけど、だからといって、人に危害を加えるのはいけないことだと思いました」
「小学生の感想文みたいね・・・」
世界最恐と謡われるホラー映画を小学生なみの感想でまとめてしまうお菊を、はたして尊敬すべきなのだろうかと思案しながらジーナはしゃがみこみ、床に落ちている日本髪の頭を覗きこんだ。
「で、アヤメは?」
伸びきった首がもつれ、こんがらかっているアヤメは、頭を床に落とした状態で白目をむき、失神していた。
「こっちがダメだったのね・・・」
「アヤメさん、『こわい、でも見たい、こわい、でも見たい』って何度もくりかえし言いながら見てました」
「それで首がこんなことに・・・」
興奮して首が伸び、恐怖心と好奇心の狭間で頭をふりまくった結果、首が糸のようにこんがらかってしまったようだ。
「あの、ジーナさん、これ、ほどいてもらえます? あと二、三回『わっか』を見れば、キットクル子さんのモノマネ、わたし、できそうですから」
「たのもしいわね・・・」
こわがるお菊を見て楽しみたかったジーナは、肩透かしをくったよな複雑な気分でお菊の拘束をといてやった。
「アヤメ、おきて、ほら、しっかり」
お菊とふたりがかりでどうにか首のもつれをほどいたジーナは、魂がぬけたような顔で呆けているアヤメの頬をペチペチとたたいた。
やがて意識をとりもどしたアヤメが、バツが悪そうに苦笑を浮かべながら乱れた日本髪を手櫛でととえだした。
「いや~、まいったねえ。まさかあんなに恐ろしい映画だったとは・・・あんなもんつくれる人間のほうが、あたいらよりよっぽどこわいよ」
「そうでしょうか」
アヤメの発言に不快感をもよおしたような声で、お菊が異論をはさむ。
「映画の全編をとおして描かれていたのは、恐怖ではなく、キットクル子さんの悲劇性だったように思いますけど」
「冗談だろ、お菊。あの気味悪い井戸からキットクル子が這いだしてくるシーンなんて、今、思いかえしただけでも身震いするよ、あたいは」
この初夏に寒気でも感じたのか、アヤメが自分の体をさすりはじめた。
正座していたお菊がペチッと自分の膝をたたいて反論する。
「いいえ。あのシーンは、長年にわたって親しんだ井戸に断腸の思いで別れを告げなくてはならないという、キットクル子さんの哀愁がこめられた感動的な場面です」
「お菊・・・あんたの感性、大丈夫かい?」
「まあまあ」
侃々諤々と『わっか』の批評をはじめたお菊とアヤメの会話に、ジーナはもち帰った買い物袋をひらきながら割ってはいった。
「お菊がキットクル子に感情移入してるのはいいことじゃん。それより、さっそく衣装あわせしようよ」
「その前に、ジーナ」
アヤメが目を細めて怪しむようにたずねてくる。
「あんたはもちろん、見たことあるんだろうね? 『わっか』を」
「ないわよ」
「なんだって?」
今度はおどろいたように目を丸めているアヤメに、ジーナは悪びれることも気負うこともなく淡々と告げた。
「見るわけないでしょ? あたし、ゲームでもホラーは苦手だし。もっとも、有名な映画だからCMとかニュースサイトの記事なんかで見たことあるから、ビジュアルふくめてなんとな~く知ってる程度の知識はあるけど、はっきり言って、ホラー映画をまともに見れる人の神経が理解できないわ」
「あんた・・・そんなんでよく、お菊に視聴を強要できたね」
「皿屋敷の命運がかかってるからね。お菊にも多少、身銭は切ってもらわないと」
「わたしはジーナさんに感謝してますよ? 井戸に対する愛着というものを考えさせられる、とっても有意義な映画でしたから」
「お菊・・・あんたの感性、やっぱりどうかしてるよ・・・」
あきれとも嘆きともつかないアヤメの発言の間にも、ジーナは買い物袋から戦利品をひとつずつふたりの前にひろげていった。
「ずいぶんとたくさんの衣装だねえ。お菊のだけじゃないのかい?」
ひろげられた複数の衣装を不思議そうに見おろすアヤメに、ジーナは片目をつむって嬉々と語った。
「お菊ひとりにコスプレさせるなんて悔し・・・じゃなくて、申しわけないじゃない? だったら、あたしらもつきあわなくっちゃ、でしょ?」
「なるほど、楽しそうじゃないか。どんなのがあるんだい?」
「せっかくだから、名だたるホラー映画で攻めてみようと思ってさ。ホラー映画のことネットで色々と調べながら買ってきたんだけど──」
ジーナは得意になって、自分のために買ってきたコスプレ衣装を意気揚々と紹介した。
「あたしが演じるのはこれ。『十三日は金欠日』の主役、仮面と鉈の狂人、ナキソン! この仮面をかぶって、鉈をふりまわしながら『金がねえええ! 泣きそおおお!』って叫んでおいかけまわせば、人間はきっとビビるはずよ。なんたってホラー界の王さまだからね、ナキソンは」
涙をこぼしたピエロのような仮面と、小さくデフォルメされた鉈のおもちゃをかかげるジーナを見て、アヤメも楽しそうに声を弾ませた。
「いいねえ、いいねえ。で、あたいのはどれなんだい?」
「アヤメのはこれ。『資料館のシスター』にでてくる、悪魔に憑かれたシスターの衣装よ。シスターの格好をして、やってきたお客に資料をわたしてあげるの」
「それの・・・どこがこわいんだい?」
「あたしも映画は見たことないけど、きっと場ちがいなミスマッチがこわいのよ。なんでシスターがここに? なんでシスターが資料を? ていうかなんの資料よこれ・・・お客の頭はこれらの疑問でいっぱいで、その混乱がやがては恐怖へと昇華する・・・はず!」
「よくわかんないけど・・・まあ、衣装はおもしろそうだから、やるよ!」
「そしておまちかね。お菊のはこれ。当然、キットクル子が着てた白のワンピね。これを当日までにボロボロに汚しておいて」
「はいッ、わかりました! 助ちゃんに踏んでもらいます」
お菊がうれしそうに白のワンピースを胸に抱きしめた。
「まってなさい、日鷺院那乃ッ──」
ジーナは立ちあがり、部屋の窓辺に歩みよると、そこから見える遊園地の事務所ビルを睨みつけ、明かりがついている窓のどこかにいるであろう女オーナーにむかって静かに宣戦布告した。
「あたしたちお化けの底力、とくと拝ませてやるわ」
有名なホラー映画に登場するキャラクターたちがでてくれば、客たちはこわがり、話題となって皿屋敷はおおいに賑わうことだろう。そうなった時の、悔しそうに地団駄を踏む日鷺院那乃の姿を思い描きながらジーナは口もとに怪しくも美しい笑みを浮かべた。
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