第17話 深淵竜

「アルベルトさん!」


 そこには、血と泥にまみれた鎧姿の男が倒れていた。

 胸の装甲は裂け、左腕は不自然に曲がっている。だが、その瞳は――確かに生きていた。


「だ、誰か...助けに来てくれたのか?」


「喋らないでください! ユナ、治癒を!」


 ユナがすぐに駆け寄り、両手をかざす。

 淡い光がアルベルトの体を包み、焼けただれた皮膚がゆっくりと再生していく。


「……よかった、生きて……」


 言いかけたその瞬間だった。


 ――ズズ……ッ。


 湿気を帯びた風が一瞬、逆流する。足元の土がざわつき、黒い影が蠢いた。


「……何だ、今の音……?」


 ゼノが低く呟く。

 ユナが治癒の手を止め、顔を上げた。


「……待って、何か下から――」


 ――ガッ!!


 アルベルトの足首を、黒い手のようなものが掴んだ。

 それは液状の影。まるで生き物のように脈動し、引きずるように地面の裂け目へと伸びていく。


「アルベルトさん!!」


 俺が手を伸ばすも、間に合わない。

 影は一瞬で膨れ上がり、彼の体を飲み込むように沈めていった。


「クソッ、離せぇぇぇッ!!!」


 ゼノがアックスで地面を叩き割るが、手応えはない。

 ただ黒い波紋だけが残り、アルベルトの姿は――消えた。


「……今の、なに……?」


 ユナの声が震える。

 俺は無意識に拳を握っていた。


「……下層だ。あの影、引きずり込んだ先に何かがいる」


「待て、レン! 入る気か!?」


 ゼノの声が飛ぶ。しかし、俺の足はもう止まらなかった。

 黒い波紋が収束し、渦の中心に光のない穴が開いていく。


「アルベルトさんを見捨てられるか!」


 その一言を叫ぶと同時に、俺は影の中へ飛び込んだ。

 冷たい。まるで氷水に沈んだような感覚。

 耳が詰まり、視界が闇で満たされていく。


「レンッ!!」


 ゼノの叫びが遠ざかる。

 伸ばされた彼の手が、寸前で波紋の向こうに弾かれた。


 ――バシュンッ。


 黒い水面が閉じる音。

 洞窟には再び静寂だけが残った。


 体が落ちる感覚が続く。

 上下もわからない暗黒の中、ただ一点、鈍い光が見えた。

 気づけば、俺の足はぬかるんだ地に触れていた。


「……どこだ、ここ……?」


 天井は高く、光源は見当たらない。

 だが、地面の至るところに黒い根のようなものが這い、淡く紫の光を脈打っている。


 そして――


「……ぁ……う……」


 聞こえた。

 血の泡混じりのうめき声。


 振り返ると、そこにアルベルトがいた。

 片腕を影に飲まれ、壁の一部と化している。


「アルベルトさん!」


 駆け寄ろうとした瞬間――彼の目が、ぎょろりと動いた。


「……来るな……」


「え?」


 その直後、アルベルトの体がぐにゃりと歪む。

 骨の音がし、皮膚が黒に染まり、影が彼の体からあふれ出した。


 闇が、笑った。


 ――クク……ク、ククククク……。


 低い、男とも女ともつかぬ声。


 声は、アルベルトの口から響いた。

 だがそれはもう、彼ではなかった。


 次の瞬間、影が爆ぜた。

 四方から黒い腕が伸び、俺を取り囲む。


 黒い腕が渦巻く闇の中、俺はぎりぎりで踏みとどまった。

 脈打つ影が一点に集まり――やがて、形を成していく。


「――なんだ、あれは……」


 地面を這っていた黒い根が急激に盛り上がり、筋肉のようにうねる。

 瞬間、頭上まで伸びた影が、翼のように広がった。

 赤紫の光が瞳を映し、巨大な影が洞窟の天井を押し広げる。


 深淵竜。全身を黒紫の闇で覆い、その鱗は光を吸い込み、触れるものの生命力さえ吸い尽くすかのように冷たい。


竜の瞳が光る瞬間、全身に異様な圧力がかかる。

 空気がねじれ、洞窟の壁が微かに揺れる。


「――黒掌!」


 俺は咄嗟に掌を突き出した。闇色の光が弾け、空間を切り裂く。

 だが同時に――


「グオオォッ!」


 深淵竜の全身から、黒い霧が膨れ上がり、掌から発せられる衝撃波とぶつかる。


竜も、黒掌を放ったのだ。

 あの感覚……威圧、熱量、空間を裂く衝撃……俺の黒掌と同じだ。


 互いの黒掌がぶつかり合う。

 衝撃で地面が裂け、紫の光を帯びた根が吹き飛ぶ。

 洞窟全体が揺れ、俺は踏ん張る足元を必死に抑える。


「こ、こいつ……黒掌を……!?」


 闇色の波動が俺の黒掌を押し返す。

 普通の魔獣とは比較にならない、圧倒的な力だ。


「黒掌・壱式」


 俺は右手にさらに魔力を集中させた。黒掌を二段階圧縮させ、弾丸のような速度と密度で放つ――黒掌・壱式。


 ──衝撃は光のように速く、影の壁を切り裂く。

 だが、深淵竜もまた手を振り上げ、黒掌を構える。闇色の波動が重なり合い、互いの攻撃が正面衝突する。


「グオォッ!」


 洞窟が轟音に揺れる。

 衝撃で地面の黒根が炸裂し、紫の光が閃く。

 俺の掌が押し返され、体が数メートル後方に弾かれる。

 だが……目の前の竜も、完全には前に進めない。


 ──互角だ。いや、俺の弾丸的黒掌の軌跡が、わずかに竜の腹部に食い込んでいた。


 深淵竜の黒掌は、明らかに俺よりも完成度が高い。

 波動の広がり方、衝撃の密度、攻撃の正確性……すべてが俺の弐式より練度が上だ。


 俺は地面に手をつき、衝撃で揺れる足元を必死に支えた。

 洞窟全体が轟音に震え、空気は黒紫の波動に引き裂かれている。


 もう一度、黒掌を放つ。今度は弾丸のように圧縮した衝撃をさらに鋭く研ぎ澄ませ、相手の防御の隙間を突く。


 次は、俺の一手で決める。


 そう心に決め、俺は再び黒掌を放つ準備を整えた。

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