解放
9
時間は、意味を失った。
俺は、部屋の隅で、ただ膝を抱えていた。
机の上の腕時計が、静かに横たわっている。俺の敗北と、喪失の記念碑。
彼の指先が、まるで存在しない機械を修理するかのように、空中で不器用に震えていた。
失われたものを、身体だけがまだ覚えているのだ。
インターホンの音が、静寂を破った。
やがて、ドアを乱暴に叩く音に変わる。
「田中! いるのは分かってる! 開けなさい!」
リナの声だった。
ドアが開き、彼女が踏み込んできた。
「その様は、何?」
彼女は、同情などしなかった。その声は、鋼のように硬かった。
「佐藤の思う壺じゃない。あいつは、あんたにそうやって、抜け殻になっていて欲しいのよ」
俺は、何も答えなかった。言葉を生成する機能が、失われていた。
リナは、俺の前にしゃがみ込むと、俺の胸ぐらを掴んだ。
「あんたが喰われたのは、何なの?」
「……」
「答えなさい!」
その声は、命令だった。
「……なおす、よろこび……」
かろうじて、喉から絞り出す。
「そう。あんたは、まだ覚えているじゃない」
リナは、俺の胸ぐらを離した。
「全部は、まだ奪われてない。あいつは、あんたの魂を『味わった』だけよ。完全に消去するには、もっと時間がかかる。弟の日記に、そう書いてあった」
彼女は、立ち上がると、テーブルの上の、飲みかけで冷え切ったコーヒーを、ためらいなくシンクに流した。そして、手際よく新しいコーヒーを淹れ始める。
部屋に、焦げ付くような、しかし力強い香りが満ちていく。
「弟も、同じだった」
コーヒーを淹れながら、彼女は、背中を向けたまま言った。
「喰われた後、あの子は、大好きだった絵が描けなくなった。何日も、何週間も、あんたみたいに部屋の隅で動かなかった。私は……ただ、そばにいることしかできなかった」
彼女の声が、わずかに震える。
「そして、間に合わなかった」
マグカップを、俺の目の前に、乱暴に置く。
彼女は、腕時計の前で震える俺の手に、自分の手をそっと重ねた。
その痛みは、私が一番よく知っている、という無言の共感が、そこにあった。
「あんたまで、同じ結末を辿るつもりなら、私はもう知らない。でも、もし、ほんの少しでも、あいつに一矢報いたいと思うなら……立て。そして、これを飲め」
コーヒーの湯気が、顔にかかる。熱い。
俺は、震える手で、マグカップを掴んだ。そして、その苦い液体を、喉に流し込んだ。
身体の芯に、失われていた熱が、灯る。
「弟の日記を、もう一度、最初から分析する」
リナは、あの古いノートをテーブルに広げた。
俺たちは、何時間も、ノートの文字を追い続けた。そして、一つのページで、俺の指が止まった。
そこには、佐藤の言葉が、大きな文字で書き写されていた。
『真の成功者は夢など見ない。現実を創るのだ』
「この言葉、俺も聞いた」
「弟は、この言葉にずっとこだわっていた」
リナが、ページの余白に書かれた、弟の小さなメモを指差した。
『なぜ、彼はこれほど「夢」を否定する? まるで、夢というものを、知らないみたいに』
知らない?
その瞬間、俺の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を結び始めた。
脳裏に、あの空間が再構築される。俺たちの輝き。そして、中心で全てを吸収する、恒星の死骸のような、絶対的な『無』。
あれは、力を隠していたのではない。あれが、奴の正体そのものだったのだ。
「……まさか」
俺は、呟いた。
「あいつ自身には、夢がないんだ。最初から、空っぽなんだとしたら?」
リナが、息を呑む。
「だから、他人の夢を喰う……?」
仮説だ。確証はない。
だが、もしそれが真実なら。
彼の力の源泉は、彼自身の内部にはない。全て、俺たちから奪ったものだ。
勝てるわけがない、と思っていた。
だが、もし、彼の力が、俺たちの夢そのものなのだとしたら。
その繋がりを、断ち切ることさえできれば。
俺は、顔を上げた。
胸の穴は、まだ空いている。失われたものは、戻らない。
だが、その空洞の底で、小さな、しかし確かな火花が散った。
「奴の武器で、奴を倒す」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます