解放

時間は、意味を失った。


俺は、部屋の隅で、ただ膝を抱えていた。


机の上の腕時計が、静かに横たわっている。俺の敗北と、喪失の記念碑。


彼の指先が、まるで存在しない機械を修理するかのように、空中で不器用に震えていた。


失われたものを、身体だけがまだ覚えているのだ。


インターホンの音が、静寂を破った。


やがて、ドアを乱暴に叩く音に変わる。


「田中! いるのは分かってる! 開けなさい!」


リナの声だった。


ドアが開き、彼女が踏み込んできた。


「その様は、何?」


彼女は、同情などしなかった。その声は、鋼のように硬かった。


「佐藤の思う壺じゃない。あいつは、あんたにそうやって、抜け殻になっていて欲しいのよ」


俺は、何も答えなかった。言葉を生成する機能が、失われていた。


リナは、俺の前にしゃがみ込むと、俺の胸ぐらを掴んだ。


「あんたが喰われたのは、何なの?」


「……」


「答えなさい!」


その声は、命令だった。


「……なおす、よろこび……」


かろうじて、喉から絞り出す。


「そう。あんたは、まだ覚えているじゃない」


リナは、俺の胸ぐらを離した。


「全部は、まだ奪われてない。あいつは、あんたの魂を『味わった』だけよ。完全に消去するには、もっと時間がかかる。弟の日記に、そう書いてあった」


彼女は、立ち上がると、テーブルの上の、飲みかけで冷え切ったコーヒーを、ためらいなくシンクに流した。そして、手際よく新しいコーヒーを淹れ始める。


部屋に、焦げ付くような、しかし力強い香りが満ちていく。


「弟も、同じだった」


コーヒーを淹れながら、彼女は、背中を向けたまま言った。


「喰われた後、あの子は、大好きだった絵が描けなくなった。何日も、何週間も、あんたみたいに部屋の隅で動かなかった。私は……ただ、そばにいることしかできなかった」


彼女の声が、わずかに震える。


「そして、間に合わなかった」


マグカップを、俺の目の前に、乱暴に置く。


彼女は、腕時計の前で震える俺の手に、自分の手をそっと重ねた。


その痛みは、私が一番よく知っている、という無言の共感が、そこにあった。


「あんたまで、同じ結末を辿るつもりなら、私はもう知らない。でも、もし、ほんの少しでも、あいつに一矢報いたいと思うなら……立て。そして、これを飲め」


コーヒーの湯気が、顔にかかる。熱い。


俺は、震える手で、マグカップを掴んだ。そして、その苦い液体を、喉に流し込んだ。


身体の芯に、失われていた熱が、灯る。


「弟の日記を、もう一度、最初から分析する」


リナは、あの古いノートをテーブルに広げた。


俺たちは、何時間も、ノートの文字を追い続けた。そして、一つのページで、俺の指が止まった。


そこには、佐藤の言葉が、大きな文字で書き写されていた。


『真の成功者は夢など見ない。現実を創るのだ』


「この言葉、俺も聞いた」


「弟は、この言葉にずっとこだわっていた」


リナが、ページの余白に書かれた、弟の小さなメモを指差した。


『なぜ、彼はこれほど「夢」を否定する? まるで、夢というものを、知らないみたいに』


知らない?


その瞬間、俺の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を結び始めた。


脳裏に、あの空間が再構築される。俺たちの輝き。そして、中心で全てを吸収する、恒星の死骸のような、絶対的な『無』。


あれは、力を隠していたのではない。あれが、奴の正体そのものだったのだ。


「……まさか」


俺は、呟いた。


「あいつ自身には、夢がないんだ。最初から、空っぽなんだとしたら?」


リナが、息を呑む。


「だから、他人の夢を喰う……?」


仮説だ。確証はない。


だが、もしそれが真実なら。


彼の力の源泉は、彼自身の内部にはない。全て、俺たちから奪ったものだ。


勝てるわけがない、と思っていた。


だが、もし、彼の力が、俺たちの夢そのものなのだとしたら。


その繋がりを、断ち切ることさえできれば。


俺は、顔を上げた。


胸の穴は、まだ空いている。失われたものは、戻らない。


だが、その空洞の底で、小さな、しかし確かな火花が散った。


「奴の武器で、奴を倒す」

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